web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

zeebra vs.伊集院光

今更だけど、zeebraと伊集院光のビーフについて、ちょっと触れておきたい(→http://togetter.com/li/260648)。ヒップホップ側から読むと、ジブさんの態度には相当の疑問が残る。
 何かについて必死になっている人間を嗤う態度について、ジブさんはそれを、出る杭を打つ「島国根性」と言い放つ。それが「中二病」の解釈として正しいかはまた別の問題として、その主張自体には僕も全面的に同意する。だがしかし、このビーフで重要なのはそういった議論の中身以前の話であり、ジブさんはこれとは別の意味で「島国根性」を体現してしまった、というところだと思う。言葉のオリジナリティがどこにあるのか、完全に見誤っている。
 有名な例として、ニガーという差別用語を挙げてみる。これはアフリカ系アメリカ人に向けた蔑称とされる一方で、ヒップホップコミュニティおいては自称とされる。この奇妙な変換の根底にあるのは、その語の語源に立ち返って最初に言い出した人物への糾弾ではなく、むしろ積極的にその語を使用することによって自分たちのものに書き換えてしまおうという態度である。言葉のオリジナリティは語源にあるのではなく、使用する側にある。これがヒップホップの(ひいてはアフリカ系文化*1に連綿と続く)理解の仕方だった筈だ。
 さて、これを踏まえた上でジブさんの言動を見ると、ラッパーを名乗る人物とは思えないほど取り乱しているように思える。中二病と揶揄するような心性を嫌ったとして、それを語源に立ち返って批判する彼の顔は、ラッパーというよりも勤勉な優等生aka世間知らずのおぼっちゃんのそれである。ラッパーを自覚的に名乗るのであれば、中二病という言葉を積極的に使い、語の意味それ自体を変えようとするだろう。思えばzeebraという人物は、日本のヒップホップシーンの創成にあたって、アメリカのそれを必死に勉強する優等生であった。その意味において、彼はラッパーではなく、善き紹介者でしかない。海の向こうに憧れるのは島国の美徳ではあるけれど、憧れるだけで満足できるのならば、ラッパーとしての欲望が淡泊だと言わざるを得ない。
*2

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20120228より抜粋

*1:例:「物騙る猿」--大和田俊之『アメリカ音楽史』

*2:少林寺に憧れるあまり、自らの出身地を「シャオリン」と呼んでしまうウータンクラン

RauDef vs.zeebra

◇RauDefとzeebraのビーフは、なんとも馴れ合った感じで終わってしまって残念だった*1。そもそも、ビーフにおいて明確な勝敗が決するというのは結構難しく、強いて言えば、ラッパーがヘッズのプロップスをどのようにして集めて勝ちを得るか、ということになるのだろう。今回の一件については、リスナーはもっと怒っていいのではないか。これで両者のどちらかでもプロップスを集めることがあるとしたら、それはヒップホップが好きだから応援したい、という義理に支えられたものでしかないんじゃないか。それはそれで大事なことではありますが。
 RauDefの「ガキの遊び」発言やzeebraの甘い態度は、ラッパーの言葉は常にリアルである、という前提を崩しかねない。そのラップがリアルかフェイクかはリスナーが判断することであり、ラッパー自らここまではフェイクでここからがリアルだという線引きをすることは、どう考えても甘えだろう。リスナーの義理がこういったラッパーの甘えを許すと、悪い方向での閉塞が加速し、ヘッズといえば排他的な人間関係を指すようになる。

◇前回の、要はラップが良ければいいのである、という意見と矛盾するように映るかもしれない。しかし、ラッパーによるラップの良さのひとつには、いうまでもなく「リアルであること」が挙げられることを踏まえると、このような態度を許容するわけにもいかなくなってくる。
 ラップはやはり歌である。が、限りなく歌い手の発話に近い形で歌われる歌である。いかにしてこのような詠法が生まれたかについては、おそらく録音技術の発達と無縁ではないのだろう*2。レコードの登場以降、歌が何度でも再生可能になり、歌い手の身体から離れていくという状況があったからこそ、歌そのものに歌い手の身体を忍ばせる試みが生まれたのではないか。ラッパーがリリック中に自身の名前を入れるのも、名刺代わりのパンチラインを創作するのも、そうした試みの一環のように思える。日常的にラップの言葉を多用し、フリースタイルを生活の一部に組み込むことなども、おそらくラップを普段使いのリアルな言葉に馴染ませる作業だといえる。
 ラップを嘘だと公言することは、そのラッパーにとってのラップは彼の日常から離れたものである、という意思表明の他に何かあるだろうか。ラップは歌であり、そして演説でもある。演説の音楽性を強調していった先に、ラップという特徴的な詠法がある。だからこそラッパーとラップは切り離せないものとなり、例えレコードの上に落とし込まれたとしても、生きたラッパーを観ることが可能になる。

◇とはいえ、たしかにRauDefとzeebraのこのイチャイチャした甘えは非常に不愉快なものではあったが、しかしそれは単に責任感と思考力が欠如しているだけであって、むしろこのビーフにおける一連のラップの方に彼らの本音があるのだろう、という擁護には(そういう擁護があるかどうかは調べてないけど)かなり同意している。なぜなら、確かにあそこにはそれぞれのスタイルの違いを明確に打ち出し、見せ場を心得た優れたラップがあったからだ。RauDefがなぜわざわざ釣り宣言をしたのか、そしてなぜzeebraはそれに甘い顔をしたのか。とにかく僕は悔しくてならない。

◇ラッパーとラップの間に齟齬が生まれるのは、どうしても本名の自分を無視できないからだ。と言うのであれば、マスクを被るというのもひとつの手ではある。
MF Doom - Doomsday

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20110529より抜粋

*1:http://togetter.com/li/138983

*2:参考:『アラザル2』大谷能生インタビュー http://head-phone.in/?pid=13975202

SEEDA vs. verbal

 ところで、かつてseedaとverbalがビーフに発展しそうでしなかったということがあった。返す返すも悔やまれる幻の対戦だけれども、この件について語るとしたポッドキャスト番組では、両者のdisの捉え方の違いが如実に顕われていた。

 これは全くの推測だけれども、seedaはやはり、思想はラップを駆動するエンジンでしかない、と捉えていたのではないか。崇高な思想も日々の喜怒哀楽も、同じラップという表現のうえで展開する。何をテーマに選ぼうと、最終的にはラップという形でしか残らないのである。良し悪しとはラップの良し悪しでしかない。disり合いとは一種のエデュケーションであり、その輪の中に入ったラッパーやリスナーは急速にラップを聴く耳を鍛えていく。
 seedaはその方向でシーンの発展を願い、verbalはオピニオンリーダーとしての自覚を持って、ラッパーではなく言論人として語った。どういう思惑があったにせよ、verbalはseedaから受けたdisとそれへのアンサーを、ラップ抜きの言論にしてしまった。果たして内容的にどちらの方法論がシーンの発展に寄与するのか僕は分からないが、こういう言論の場に引っ張り出されて尚フリースタイルをかましたseedaは、ラッパーとしての勝利はしっかり収めていたと思う。
 とはいえこの一件があったからこそdisについて僕が意識的に考えることができたのは確かであり、そういう意味でverbalの問題提起は全く慧眼だった。そしてそのことがつまりverbalが優れた言論人であることを証明してもいる。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20110522より抜粋

ラップ論メモ2

メモ。語りは、普段使いの言葉を駆使しながら、ひとつの連なりとして持続することによって完結した時間をこの場に再現してみせる。そのとき僕らは、唇から放たれた声の音色、リズム、音の高低に意識的である。演説も歌も、本質的な違いはない。
メモ。全ての出来事は、一回きりの出来事であるはず。言語活動は、本来一回きりの出来事であるはずの瞬間を、既知の反復と認識させる。僕らが現実を知覚して再構成できるのは、この反復可能性に依る。
メモ。反復可能な言葉とは、僕らの身体の外側にある言葉のことである。しかし、僕らは語ることができる。語りとは、身体の外側にある言語的認識を、発話という行為によって接触可能なものにする。肉体を通じてひとつの完結した空間を作り上げる。
メモ。録音は、肉体の介在しない音を提出してしまう。
メモ。聴くという行為は、鼓膜に触れる全ての空気の振動から、特定の音を選別することであり、だからこそ全ての音を言葉とそれ以外に分類しようとする。もしその選別作業がなかったならば、それはもはや聴くという行為ではなくなり、また聴くという意識を自覚できなくなってしまう。
メモ。録音は、しかしその場で震えていた全ての音を分け隔てなく記録してしまう。人の手を介さずに、言葉を介さずに、純粋に物理現象だけを機器が拾い上げる。
メモ。ラップは、録音時代の語りである。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20110925より抜粋

J・J・エイブラムス『SUPER8/スーパーエイト』

 昨日は、会社帰りに待ち合わせて妻と映画。『super8』を観てきた。
 『未知との遭遇』を観た直後だったせいもあるし、そうでなくとも実際、意図的にわかりやすく示している面もあるんだろうけれど、細かいシーンの端々から、確かに引き合いに出して語られている映画を感じさせる。全く嫌味を感じさせないという時点で、否応無しに好感度は高くなる。それらの作品への敬意を明確にして同じ地平に立ち、斜に構えて一方的な勝利宣言をするのではなく、自分に血肉化した表現に依った上で映り込む何かを撮ろうという姿勢。
 『E.T.』が不在の父親としての宇宙人を描いたのだとしたら、『super8』のそれは不在の母親だろう。とはいえ、それは宇宙人として描かれた存在それ自体ではなく、作品全体に漂い続ける青い光(「ハレーション」でいいのかな?)の方である。超常現象の兆候を感覚させながら、幼い日に涙の溜まった目に映った街灯のようでもあり、そして何より、それはカメラを介すことによって顕われる。不在の母親は再生したフィルムの中にしか存在せず、またカメラを回すたびに不在の母親が偏在するのである。
 また、この青い光が主人公だけでなく、仲間の少年たちにとってどのような意味を持つかについても考えてみる必要があるだろう。不在の母親の影、青い光は、ヒロインを演じる少女への期待であり、つまり恋心でもあり、やがて映画の欲望に昇華していく。例えば恋に破れる監督の少年は、しかし映画の中でなら首筋にキスをしてもらえるし、探偵を演じる少年は、実際にはゲロばかり吐いて頼りにならないが、8ミリ映画の中では実に堂々とした演技で精悍な佇まいさえ見せる。その一方では映画制作から降りる少年も居るわけで、この辺りの距離感はとても生々しい。そのなかで特に注目させられるのは、ゾンビ役を演じる火薬少年の存在である。彼が最も危険な状況に最後まで立ち会うのは、火花というもうひとつの光の魅力を知っているからではないだろうか。映画と、銃や爆弾などの火器は、光を発するという意味で同様である。火花や炎の赤い光とカメラを介した青い光が、作品全体に幾度となく映る。

 『E.T.』における虹、『未知との遭遇』におけるシンセサイザーとともに発せられる七色の光とは、言葉である。つまり言葉は単色ではない。『super8』は、多色である言葉を分解し、そのひとつひとつを対比させながら、映画の色を丁寧に宣言していく。いうまでもなく、青い光は虹の一部である。大きなスクリーンに照射されながらも同一の現実をもたらすことはなく、ソリッドな手触りを伴いながらもどこか感傷をくすぐられる、あの青い光のゆらめきこそが、映画から発せられた、そして映画にしか発することのできない言葉のように聞こえてくるのであった。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20110702より抜粋

ラップ論メモ1

 いわゆる歴史の話を聞くと、なんだか自分と切り離された物語を見ているような気分になる、というのがまあ正直なところだろう。流れていく時間の一部を自分が担うというよりは、大文字として記録されるべきひとつの時間が流れていて、それはこの社会を築く主流であり、それと並行して流れる別の小さな時間のなかに自分が居るようにすら思えてしまう。ある側面ではこれは正しいのかもしれないのだが、内的な時間と外在化した時間の二つしか存在せず、内的であると同時に公的な時間の存在を忘れてしまっているようにも見えるのである。いわゆる世界と自分の尊大な二項対立、ということになる。
 ラップは、まず外在する時間を体内に取り戻す。日常的な言葉を、自分の声を使って持続的なリズムに作り替える。これは正統な生の記録だろう。こうして作り出された彼の内的時間の記録は、次にリミックスやサンプリング、その他DJプレイの中で断片的に切り刻まれる可能性を孕む。ラッパーは自分の内的な持続をもった時間が、ある視点からは断片的に捉えられる、ということを前提とした上で生を記録するのである。つまりここには、自分と世界だけがあるのではなく、自分と世界の関わりを見つめる誰かの視点が常にある。
 ラッパーのシアトリカルな態度とは、つまりこの第三者の視点を担保するものだろう。自分をキャラクター化して捉えることで、自分がどのように世界を見ているのかを自覚する。性別、地域、国籍、趣味、思想、自分を取り巻くあらゆる社会的な属性と、そこに顕われる感覚や感情の全てに自覚を挟み込み、自分が世界をどのようなフィクションとして描き出すのかを見る。全てのラッパーがヒップホップという文化の成員であるというのはそのような意味である。そこには正史も偽史もない。
 膨大なアーカイヴを盾に歴史の終わりを主張されても、どうしても失笑してしまいそうになるのは、おそらくこうした営みを見ているからだろう。記録は、大文字の歴史にのみ特権的に許された行為じゃない。そういう風に見える瞬間があったというだけの話。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20110806より抜粋

テレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』

 上映期間も終わりかけの時期に駆け込んだ。そのときはまだアラザル用原稿を書いている最中だったので、どうしてもそっちのテーマに惹きつけて観てしまう。つまりこれは、時間を自分のものとして掴む映画だ。
 生命の起源を語る映像の連続は、一歩間違えればやたら大仰で野暮ったい。これらは様々な生命の連鎖を順番に描いていき、そのままひとつの家族の物語へと流れていくのだが、この流れは見ようによっては、あるひとつの家族の物語を、この地球誕生の歴史になぞらえるようでもあり、尊大だと受け止められる節もあるだろう。ただ、これを長男による記憶、太古の昔から脈々と受け継がれてきた記憶として捉えてみると、全くもって凄まじい時間認識で何かが語られようとしていることに気が付く。別にネタバレどうこうが問題になる映画ではないのでためらわずに書くけれども、これは始めから終わりまで長男の視点で語られ続ける映画だと思う。生命の起源から両親の記憶、そして二男との思い出。これらは全て長男の肉体のなかに潜在する記憶という意味では一緒なのである。
 「自分の人生を掴む」というのは、父親が息子たちの前で話す台詞である。その裏で、父親自身もまた自分の人生を掴もうと躍起になっている様子が描かれる。音楽家になる夢をあきらめた過去と、仕事がうまくいかない現状。過剰なまでに息子に抑圧的な態度を取るのは、彼の人生の続きを息子に託すからである。長男は、自分の人生を父の人生から切り分けようと、次第に反発を強めていく。
 だが自分の時間を掴むために幼い長男が試みるのは、結局二男を支配することでしかない。それ以外の術をまだ知り得ない彼は、しかし自分が父と全く同じ行動を取っていることに無自覚でいられない。愛する弟を傷つけることでしか父から逃れられない彼は、常に引き裂かれるような感覚を覚える。二男の死を思うとき、彼はその念をより一層強くしているのだろう。
 だが映画、つまり彼の記憶とされている映像を観れば、彼は父の想定する「人生」とは別の時間を、様々なところで見つけていることに気がつく。風に舞うカーテン、女性の足元を揺れるスカート、川に流された下着。あるいは特徴的な歩き方を真似てみたり、ターンテーブルに手をつっこんでレコードを変速してみたり。つまりここでの時間の認識とは、ある大きな唯一の時間を自分の元へと引き寄せるのではなく、あらゆる方向に向かう流れを受けながら自分がどのような表情を見せるかなのである。それに気が付いた時、彼は複数の時間が交錯する地平へと一気に開かれる。この複数の時間の交錯が、自分の編み上げた自分の時間であり、つまり言葉であり、フィクションである。河口で記憶のなかの人物と出会い、語り、別れながら、彼は自分の物語を自分の手で紡いでいることに気がつく。僕らが夢想するエデンの園には、生命の樹が深い永遠のなかに根をおろすのである。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20111016より抜粋