web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後五時。明るい家路。

◇仕事が一段落したので、定時より一時間ほど早く上がることにした。一年のなかで最も寒いが、同時にびっくりするくらい暖かい日もあるのが2月だったりする。

◇もう一ヶ月以上も前のことになってしまうのだが、息子が無事卒乳した。
 年末年始の9連休に断乳を決行。乳が欲しくて泣き続ける夜もあれば、笑いながらパタンと寝てしまう夜もあり、そんなのを繰り返しているうちに、連休が明ける頃にはなんとなく入眠スタイルが出来上がりつつあった。なぜか妻の顔を触りながら寝るのである。

◇一月の連休は、小学校からの腐れ縁たちと日帰り温泉旅行へ行ってきた。僕らは高校時代にバンドを始めて以降、一緒に暇な時間を持て余してきたのだが、やはり実家を離れるとなかなかそういうわけにも行かない。そんななか、なんとなく一昨年あたりから年末の日帰り温泉旅行というのが恒例行事化してきたのだった。とはいえ、なんだかんだフルメンバーで行けたのは初めて。今年は仲間内の二人が結婚する。
 そのうちのひとりは、僕と同様就職が遅れたクチだが、最近電車の運転士免許を無事取得し、僕のうちの近所を走る交通機関で働くことになっている。僕の家族の姿を見かけたら、ホーンを軽くならしてくれると言う。

◇『レ・ミゼラブル』。歌い手の顔をスクリーンいっぱいに映し、歌声を細かくしっかりとマイクで拾いながら、微細な筋肉の動きや息遣いを丁寧に記録していく。それはまさにフィクションのフォーマットに乗っかったドキュメンタリなのだが、ところでふと、大友克洋の画もそのようなものではないかと思ったりした。
 何かをひとつの画のなかに描写するという時点で、恣意性は免れ得ないが、というかそれは積極的で自覚的な作為のうえにようやく成り立つものだったりもする。再び顕われたアン・ハサウェイは、それを毅然とした態度で暴露してしまう。

◇『アルゴ』。ハリウッドとアメリカがそのままイコールで結ばれた、幸福な映画だった。宇宙を舞台にすれば、あらゆる人間が対話可能になる。「偽装だけが銃から身を守るんだ」というのは今年一番のパンチラインだと思う。

午後11時。真冬のブルーベリー。

◇息子が寝静まると、妻とふたりでお茶を飲む。
 夏に穫ったブルーベリーが冷凍庫に眠っていたので、部屋を充分温かくしてから食べる。

◇今年のクリスマスは短かった。
息子のプレゼント「2カラーせんせい」を開けるや否やすぐ出社しなきゃなんなかったし、ならばと少しでも早い帰宅を試みるも、結局帰ったのは23時過ぎ。家では妻と息子がすやすや眠っていて、翌朝の食事の下準備と、中途半端に片付けられたクリスマスツリーがあった。息子を寝かしつけた妻が、ツリーの片付けに取りかかった頃、ちょうど息子がまた泣きだしたのだろう。目に浮かぶ。皿洗いをして、ひとりツリーの片付けをしていると、息子に渡したプレゼントが目に入った。ボードには赤と黒のペンで二頭ずつ、熊の顔がある。この熊は断乳の時、子供に授乳の終わりを告げるために、おっぱいに描かれる予定のものだ。

◇2012年は終わりの年らしい、というネタでPUNPEEBACHLOGICが相見えてから3年。いまや彼らはシーンを両側から引っ張る二大プロデューサーになっているわけだけれど、さて、それはそうと今年は日本語ラップの大変な当たり年でもあった。そういえば2012年終末説ってのは、世界が終わることではなくて、ひとつのサイクルが巡るって解釈もあるらしい。
 今年も2Dcolvicsさんにて「2012BEST ALBUMs In 日本語ラップ」の企画に参加させていただいたので、そのことについて手短に書いていく。ランキングはご覧の通り→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52157479.html
 まず、10位に選んだSALU『IN MY SHOES』。日本語ラップが到達したひとつの頂点として、クラッシックのひとつに数えられるのは間違いない。日本語の発話を細かく分割して自由自在にコントロールできるSALUは、精巧なオブジェとしてのラップを練り上げると同時に、リスナーとプレイヤーの間にしっかりと線を引く。両者は互いに干渉し合うことなく、完全に分断された場所からひとつの音楽に向かい合っており、その意味において、このアルバムにおけるSALUのラップはサイファーを囲むラッパーのそれではなく、コンサートホールの中央から聴衆に向けて朗々と歌い上げるヴォーカリストのそれだと思う。このときリスナーが捉えようとしているのは、SALUのラップそのものであり、ラップするSALUではない。ちなみにメモっておくけれど、ラップする身体を捉えるのか、ラップという歌を聴き取るのかについては、結構深く掘っていく価値のある問題だと思う。
 これとはまた別の角度から、リスナーとプレイヤーを区分しているのが3位のMoe and ghosts『幽霊たち』。『アラザル8』でも触れたけれど、Moeのラップもまた、彼女自身の身体の在処をどこまでもぼやかす。けれど、どうもその身体は「ないんだけれど、あるような気がする」もしくは「多分あるんだけれど、捉えられない」といった類のものであり、最終的には、その身体の不明瞭さそのものに焦点が合わせられている。例えば写真に写り込んでしまったノイズが人の顔に見えたりするように、レコードの上にしか存在しない「身体」というものがあり、そういったものに僕らは幽霊の身体を見る。ラップは、多かれ少なかれ日常口語に漸近するけれど、ひたすら歌声のまま、日常生活の口語行為に全く近づかずにラップするMoeの姿は、まさに「幽霊」そのものだろう。とはいえ、個人的な好みを言えば、隠しトラックで人間(a.k.a.生活者)としてのラップを披露するMoeもすごく魅力的。
 WATTER『WATTER』。完成度はそんなに高くないと思うけれど、変なラッパーと変なトラックをコーディネイトする能力に、ちょっとした凄みを感じて9位にしてみた。なんとなくPUNPEE周りは、MACKA-CHINみたいな変なセンスを纏っていて、いつもツボってしまう。で、それを見事にポップな方向に昇華すると、7位のLBとOtowa『インターネット ラブ』になる。リリックもライミングもキャラクター(声)も最高レベルだし、音楽産業を取り巻く各方面の状況も見据えて乗りこなす様子は、日本語ラップ界の大秀才といった気配。このアルバムを一位にしても、結構面白いランキングが作れる気がする。
 7位のERA『JEWELS』は、多分今年一番聴いた。m-floのタカハシタク的なソリッドでカラフルなサウンドの「きらびやか」もあるけれど、ERAは、例えば終電車の床の上に落ちたスパンコールの鱗だとか、オール明けの街でカラスがつつくゴミ袋から割れたガラスが反射しているだとか、そういう闖入する「きらびやか」を丁寧に描写する。むちゃくちゃ好き。で、4位のECD『DON'T WORRY BE DADDY』は、生活に闖入する「何か」を限りなく広げることで、あるべき「生活」のイメージといったものをどんどん取り壊して行ってしまう。たびたび挿入される目覚まし時計の音が、段々と目覚まし時計の音に聞こえなくなってくる様子が象徴的だけれど、生活というゲシュタルトが崩壊しても人間で居られるのは、夢をみることができるからなんじゃないか、なんてことを考えたりした。
 similab関連。5位のQN『New Country』と、6位のOMSB『Mr. "All Bad" Jordan』では、どちらを高順位にするか本当に迷った。結論から言えば、ラップのテクニックと今年のQNの頑張り具合を見てこういう風にしてみた。次回作やら今後の展開の期待から言うと、OMSBの方が上になる、ということは付け加えておく。対比させながら聴くと、QNはトラック選びやラップのこだわり方を聴くに、すごく繊細なところまで気をまわしていて、大味なところがなく上品にまとまっているけど、それがこじんまりとした印象も与える。OMSBは無骨さを隠さないラップと大胆なトラックメイクで、ちょっと有無を言わさない迫力。同じグループに居なくてもいいけど、いっしょに仕事する機会をどんどん増やして欲しいとは思う。

◇休憩。「2012 BEST on YouTube In 日本語ラップ」も選ばせていただいたので、よろしければそちらもぜひ→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52157471.html

◇上位2つは、心情的にはどちらも1位。両者ともにラッパーとしての魅力が溢れてる。

◇2位、MOMENT『UP DOWN』。


昨年リリースされたミックステープ『Joon Is Not My Name』に収録された『I LOVE HANDAI』は、まあ金もないけどそれなりに楽しけりゃいいじゃんね的な、一見イマドキの大学生っぽいとも言える雰囲気をまとっていた。韓国からの留学生という立場から見た日本の不思議なところが、そのまま日本の学生の“社会への疑問”といった視線とうまくくっついて、大学というアイデンティティを保留にしておける空間を描写していた。しかし、よくよくリリックに耳を澄ませば、ゆるい空間においてすら、他者としての自分への意識が常に働いている。彼の「とりあえず飲もう!」という声は、ぬるま湯のなか、いつまでも自他の境を曖昧にできる無邪気なそれとは異なり、パーティだけがそうした問題を取り払ってくれるということへの叫びであったりする。つまり、momentにはこのときから、大学生活の外側がはっきりと見えていたのだとも言えるだろう。
 今回のミニアルバムは、彼の入隊直前までレコーディングされたもので、外人ラッパーを自称する彼のドキュメントとしても非常に貴重なものになっている。全体を通して前に出ているのは、彼の「迷い」であるが、それは言い換えれば「揺らぎ」でもある。言語、学生生活と兵役、日本社会における外人、といった具合に、テーマのなかに複雑に絡まり合った二つ以上の事情を用意し、韻を踏みしめながらリリックを前に進めていく。シンプルな押韻にも関わらず豊かにグルーヴするのは、3カ国語を咀嚼する彼の身体に依るものであり、複数の事情の間で揺れる彼の苦悩に依るものでもある。そのいくつもの側面の、いずれをも否定することなく、そして引き裂かれることのないまま、momentは“individual”をラップによって提示する。

2年間の兵役を終えて阪大に戻った彼に、軍人としての規律生活について聴いてみなければならない。勉強しとかないと。

◇1位はKOHH『YELLOW T△PE』。


ちょっとだるそうに、大好きなギャルやファッションについて延々歌うのがすごくいいと思って、早速ミックステープを購入してみたのだけれど、予想外というか、ちょっと感動してしまった。“自分の興味あることだけ歌う”という姿勢は、ある決意に貫かれていた、という事実を目の当たりにしてしまったのである。
 13曲目『FAMILY』は、KOHHの家族をテーマに、2歳の頃に亡くなった父、向精神薬大麻を手放せなくなった母、弟の流産と、その後の妊娠で無事生まれてきた10個下の弟(LIL KOHH)のこと等が淡々と歌われるのだが、彼はそれを「普通の家族さ」「君と違うだけ」とさらっと言い切っている。自らの境遇に対するこのような距離感は、僕に古谷実の作品を思い起こさせた。事実、3曲目『I NEED HER(REMIX)』の「おちんろんとおまんろんがンパンパ」というリリックは『僕といっしょ』からの引用だったりもするのだが、さて、その『僕といっしょ』の主人公すぐ起とイトキンは、「爆笑」という手段を身につけることによって、圧倒的な暴力に晒されつづける“人生”をサバイブしていたことを思い出してみる。この「爆笑」にあたるものが、KOHHにとっての「ラップ」であるというのは間違いないだろう。SALU『STAND HARD』が、KOHHの手にかかれば「歩いてるだけでやたら目につくカワイイコ」になってしまうように、いかなる状況でも彼はギャルへのエロい視線を送らずにはいられない。暴力に真っ向から対峙するのではなく、その隙間を縫うように駆け抜けること。それが、KOHHの示すサバイバルである。

 ところで、僕には主人公であるすぐ起の姿が、KOHHと重なって見えているのだが、どうだろう。少なくとも、彼はすぐ起&いく夫兄弟を、どう読んだのだろうか。

◇推敲というか、最近全然書けないので公開が遅くなってしまった。

◇書けないというのは、時間的な問題ではなくて、そのままの意味で「書けない」ということだったりする。

午前3時。寝息と泣き声の入り混じる。

◇夜中に目を覚ました息子を、授乳以外の方法で再度寝かしつけるのが難しい。泣いているのを見るとすぐにくすぐって誤摩化したくなるが、興奮して完全に起きてしまっても困るので、静かに抱きかかえる。1時間半ほど泣き続けた後、自分から布団に横になって、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら寝た。

◇妻が高熱を出してしまった。どうも乳腺炎らしいとのこと。
 息子がおっぱいに歯を立てるらしく、授乳のたびに妻の悲鳴が聞こえる。傷口は深くなる一方で、そろそろ卒乳も考慮に入れなきゃいけない時期でもあるという事情もあり、最近は授乳回数を減らしていた。今回の乳腺炎は、そうした事情が影響してしまったらしい。
 妻が寝床に臥せっている間、僕は息子と気儘な時間を過ごしていた。

◇水泳に関しては、もう今年は行かない。年末になると「心機一転、来年から」という言い訳をするようになる。

◇『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。いい話だと思う。
 あの旧劇場版のラストについては、本当にびっくりしたと同時に疑問も覚えていた。簡単にいえば、何もそこまでしなくてもいいんじゃないか、ということである。あそこまでしなければならないというのは、むしろその問題に拘泥し続けていることの証拠であり、更に拘泥し続けるであろう担保にもなってしまう。
 旧劇場版のアスカが、あそこまで激烈な拒絶を持ち出さなければ他者性を持ち得ないのに対して、『Q』のアスカ及び作品世界においては、見知った顔の人間が知らない人間として振る舞う、という極めてまっとうな方法で他者が現れる。つまり「あの後シンジはどうした?」が、ごく自然な形でここから始まろうとしている。
 自分と母親以外の人間を他者と感じる子供にとって、他者は無力感を持ち込む存在でしかない。他者の存在を意識し始める時期の子供は、全能感か無力感かの二択でしか世界と自分を切り結べないからだ。無力感から逃れるために、全能感をのみ得られる世界に閉じこもろうとする者のことを、童貞と呼ぶ。戦闘ロボットや美少女フィギュアに熱中し、空想の世界に浸り切ることによって母との関係を無理矢理に続けようとする童貞は、全能感の有効な領域のなかで、自分自身を理想的な姿に作り変えようとするだろう。つまり、『Q』のなかで重要な要素は、エヴァ綾波という母との断絶、そして渚カヲルという理想化された自分の否定である。それによって、シンジは徹底的に途方に暮れ、正しく無力感を突きつけられることに成功する。
 だから、茫然とするシンジの手を引く『Q』のアスカは、他者として存在しながら、全能感と無力感の単純な対立の先へと誘う存在である。かつて、「貴方のお母さんではない」という身振りを強めていった挙句、ついに「気持ち悪い」と発言しなければならなかった人物と、14年の時を経て、断絶を深めることによって、逆にこれからの関係性を模索していくことができるようになる。そのようなごくありふれたことが、きちんとこの作品にも与えられたということに、少し感動してしまったり。

◇それにしても、かりそめではあったとしても、ひきこもれる(と思える)場所がある、というのは一種の贅沢な悩みにすら思える、というのが僕がエヴァに行かずに古谷実僕といっしょ』に行った理由ではある。

午前9時半。子に手を引かれる冬の道。

◇予報によると、土曜は朝から一日雨だという話だったが、まだ降り出していない。最近歩くことに楽しみを覚えた息子が玄関から靴を持ってくるので、雨の降り出す前に散歩に出掛けることにした。
 八高線を間近に見ることのできる遊歩道を、僕の人差し指を掴んだ息子がぐいぐい歩いていく。時折電車が通り過ぎる以外は、もうすっかり冬の風が木々を鳴らし、その合間に息子の声が聴こえてくる。力をこめた瞬間に漏れるかけ声なのか、何かに向けた呼びかけなのかはわからないけれど、僕は勝手に息子の声に応答している。ダイアローグともモノローグともつかない「会話」である。

◇すごく久しぶりの水泳は、新調した水着で挑戦するはずだった。受付を通り、着替えを済ませ、入水前のシャワーを浴びて、準備体操をしながらゴーグルをはめると、なにやら右目の感触がおかしい。見れば右目部分だけパッキンが外れており、その瞬間、数日前に息子がゴーグルをひっつかんでかなり乱暴に遊んでいたことを思い出した。
 なんだか塩素もキツく、水中で目を開けるとやたらしみるので、背泳ぎだけ10往復した。10往復で止めたのは、背泳ぎでは何度も人にぶつかるからだ。今日はもう泳ぐのを諦め、残り時間は水中歩行をすることにした。
 昔読んだ空手の本に、水中で前蹴りをするトレーニングがあったことを思い出し、水中で移動稽古をやってみる。珍しく顔を水の外に出しているので、このプールに飛び交う会話が聞こえてくる。親子連れが三組の他に、男二人がプールサイドをあまり離れずに会話していて、どうやら一方がもう一方に泳ぎを教えているらしかった。

◇今年逃した日本語ラップのアルバムを集めているんだけれども、本当に最悪なことに、punpeeのソロだけが手に入らない。高値でも手を出すか迷っている。それにしても、今年はソロの多い年だった。

日本語ラップシーンで今年ちょっと流行ったものに、『徳利からの手紙』(→http://soundcloud.com/leetok/jktuuupba4cc)がある。@leetok氏が、自身のツイートをトラックの上に読み上げる/ラップしたもので、形式はポエトリー・リーディング的、内容は自虐ネタに彩られた青春讃歌といったところなのだけれど、これが色々なアーティストにリミックスされている。DKXO『徳利からの手紙 〜GANJA REMIX〜』(→http://soundcloud.com/decayxodus/ganja-remix)やtofubeats『徳利からの手紙(social distance mix)』(→http://soundcloud.com/tofubeats/social-distance-mix-tofubeats)など、ヴォーカル部分をカットアンドペーストしているリミックスを聴くと、それぞれがどのようなイメージで音をつけたのかがわかりやすい。というか、この一連の楽曲群は、イメージの道筋を明確にするゲームなのだと見てもいい。リミックスという手法が本質的に持っている側面を、よりわかりやすく強調したものになっている。
 元ネタとリミックスの両方込みで出来上がっていく楽曲群全体が『徳利からの手紙』であり、元ネタへの評価は、その楽曲の完成度とは別に、新しいゲームの規範・ルールを作ってしまったという点からなされることになる。個々の楽曲の完成度よりもその差異に重きを置く態度とはつまり、リアルか否かを重視するヒップホップの姿勢のことである。
 リアルというのを単純に表現するならば、手触りがあるということである。ある作品に手触りを感じるとき、作品の持つコンテクストと自分の持つコンテクストは摩擦している。両者に差異がない限り、そもそも手触り自体が意識されない。

◇録音技術は、ベストテイクの追求に用いられもするが、と同時に、量産によってそのテイクを複数化する。そこではまず「顕在化したベストはもはやベストではないのではないか」という疑念が提出され、完璧という不可能性を担保することで、あらゆるテイクは序列化されようとする。しかしその一方でまた「そもそもベストは唯一でない」という回答も用意されており、受け取り手それぞれにベストの追求を任せることも可能である。リミックスは、後者の流れにある。ベストテイクを目指す競い合いよりも、むしろそれぞれのテイクが生み出していく差異に注目しようとする試みなのである。

◇圧力鍋で骨まで食べられるぶり大根を作ると意気込む妻の横で、ブログを書いている。書斎と台所が同じ場所にあり、ふすま一枚隔てた部屋には息子が寝ている。ときどき雄叫びをあげるので、そうしたときにはふたりでそっとふすまを開けてなかの様子を伺う。毎晩の、大体0時頃の我が家の様子。

◇明日の文学フリマでは、『アラザルvol.8』が先行発売される。僕は自分の論考『ラッパー宣言』はお休みさせていただいて、クロスレビュー企画で、Moe and ghosts『幽霊たち』、『アウトレイジ ビヨンド』について書かせてもらった。前者については、年末にもう一度触れ直す機会があるかもしれない。

午前1時。遠くの雨が駆けてくる。

◇やがて僕らの頭上を走り抜けると、秋の空気になっていた。

◇日曜日。八王子の神社で「泣き相撲」なる催しがあるということで、息子を出場させることにした。
 雨のなか受付を済ませると、妻と息子は祈祷のためにまた長蛇の列に並び、僕はビデオカメラを構えてテントで待つ。舞台の上ではどこかの相撲部の学生だろうか、白いマワシをつけたおすもうさんが四人並んでいて、それぞれ「泣き力士」たちを抱いて立っている。より激しく泣いた方が勝ちであるはずの泣き相撲だが、実際はほとんど、泣かせようとする行司となかなか泣かない力士との戦いである。行司が「はっけよい」と最初の声を挙げると、まずひとりふたり泣き出し、続けて「のこったのこった」と大声を張り上げながら、泣かなかった力士に迫っていく。最後まで泣かない力士も少なくなく、なかには満面の笑みで行司を眺める者や、最初から最後までおすもうさんの胸で眠り続ける力士まで居て、それぞれの将来を追って調べたい気にさせられる。取り組み毎に、泣きっぷりの良い力士に「優勝」が贈られ、最後まで泣かずに終わった力士には、声を嗄らした行司から「特別賞」が宣言されることがある。
 我が息子は取り組みまでの長い待ち時間に飽きてしまったらしく、ぐずるより先にしくしくと、既に小さく泣いていたそうだ。せんべいなどを食べさせながらなんとかやり過ごし、いよいよ大一番、妻の手を離れるや否や声を挙げて泣き出し、行司が第一声「はっけよい」と叫べば、負けじと声を高くした。息子の隣が「特別賞」狙いの力士で、行司はそこに向かって「のこったのこった」と気合いを入れるのだが、その声に息子は力の限り反応する。とうとう身をよじって反対側のおすもうさんの肩まで叩き、もはや「優勝」にしか興味がない様子であった。
 果たして息子は優勝し、我が家に戻ってからもその実力を余すところなく発揮している。

午前10時。子の昼寝、夫婦の二度寝。

◇息子は6時くらいに起きるとすぐに全力で遊び始め、朝の離乳食が終わるくらいまではテンションを維持する。息子が食事を終え、妻の胸元にしがみついて「デザート」をねだる頃が、大体僕の出社時間となるので、そのままうたた寝を始める平日の息子の姿を知らない。本日はそんな平日の母子のサイクルに、僕も参加させてもらった。

◇本日は息子の誕生日なので、半休を取ってお祝い。
 妻はホットケーキを、息子の食べられそうなフルーツとヨーグルトクリームでデコレーションして、見事なバースデーケーキに仕立てていた。数日前から数歩歩いていた息子だが、一歳当日の今日は10歩ほど歩いて、そんな祝いの声に応えている。

◇最近水泳に行っていない。まずい。これはまずい。

古谷実サルチネス』。単行本1巻が発売となっていたので、早速購入。古谷実作品は、同じテーマを何度も少しずつ変奏しながら、その度ごとに全力で回答を出していくものであるため、今のところ全作品をひとつの作品と考える作業が有効だと思っている。とりあえずここでは、作品史的な関係をちょっと整理しておく。ちなみに作品の発表順は、『行け!稲中卓球部』→『僕といっしょ』→『グリーンヒル』→『ヒミズ』→『シガテラ』→『わにとかげぎす』→『ヒメアノ〜ル』、そして『サルチネス』です。

◇主人公の中丸タケヒコは、前作『ヒメアノ〜ル』に出てきた平松ジョージという人物に似ている。『ヒメアノ〜ル』は、岡田→安藤→平松の順に人としてヤバい度合いが高まっていき、その果てには森田という決定的に「普通」を望むことすら許されないような人物が配置されることになるが、このうち、岡田と安藤までには彼らを救出する女性が存在する。つまり普通の側に入れるか否かの境界線は、安藤と平松の間に引かれているということになる。『ヒメアノ〜ル』が描き出した森田の顛末とは別に、おそらく『サルチネス』は、平松の物語を描こうとしているのだと、まずは考えることができるだろう。
 女性の登場によって普通の側に入れるか否かが決まるというモチーフは、『行け!稲中卓球部』における井沢と前野から何度も繰り返されているのだけれど、この二人の性格的な違いをもう少し明確にしたのが、『僕といっしょ』におけるイトキンとすぐ起であったろうと思う。イトキンは隙だらけですぐに誰かを頼るが、すぐ起は(少なくとも自分のなかでは)ストイックで妥協を許さない人間であり、後ろを見せることを何よりも恥とする。人に頼ることに恥を覚えないイトキンは、その後『グリーンヒル』のなかで幸せな家庭を築くことに成功したようだが、ではすぐ起は一体どうなったのだろうか。
 ある意味では、同じ中学生である『ヒミズ』の住田が、もうひとりのすぐ起として描かれていたとも言えるが、『サルチネス』は、より正しく『僕といっしょ』の“続編”めいた様子である。

◇今気付いたけど、『シガテラ』の荻野、『ヒメアノ〜ル』の岡田は、『僕といっしょ』のいく夫だったんじゃないだろうか。

閑話休題。「14のときからずっと家にこもって」いた中丸タケヒコの夢は、妹が立派な大人として幸せに生きることであり、物語はそれがすでに達成した後から始まる。最初に明らかになるテーマは、一度倒した筈の「“人生”という摩訶不思議な化け物」に今一度立ち向かう、ということである。早めに言ってしまえば、「自分が幸せにならない限り、身近な人を幸せにすることはできない」という裏テーマもここにはあると思うのだけれど、ともかくこの主人公は、妹の幸せを願う一方で、自分は妙な修行ばかりしている。それはつまり、自分自身の幸せへの希求は妹のそれと完全に同一化させているのだから、にも関わらず尚溢れ出る自分の欲望さえ抑えられれば万事うまく行く、という考えがあるのだと思う。ふと『僕といっしょ』のすぐ起がプロ野球選手になる夢を捨て、いく夫に全てを仮託している姿を想像してしまう。
 14歳の家出で幕を引いた『僕といっしょ』から数年、「14のときからずっと家にこもって」いた男が、再び家出をする。『サルチネス』の幕開けをそう位置づけてから、今後を観ていこうと思う。

◇このキャラクターの不気味さを、挙動ひとつで説得する松本人志が見事。

◇REV TAPE vol.1(→http://dopetm.com/2012/09/05/1928.html)が素晴らしい。いくつかレビューしたいものもあった。

午前0時。同じ寝相のふたつ影。

◇クーラーをつけても、結局風を通した方が気持ち良いってことが多い。

◇水泳は土曜日に。50分2050メートル。
 昼間は混むだろうと思ったので、夜行くと案の定ガラガラ。「センターコート」の屋根は夜にも関わらず開いていて、すっかり暗くなった空から夏の湿った空気が降りてくる。八王子はこの日花火大会で、打ち上げる音が水中にも届いていた。昼、ビールの誘惑に負けなかったことを誇らしく思った。

◇つたい歩きが大分楽しいらしく、息子はふすまの周りをぐるぐる廻ってきゃあきゃあはしゃいでいる。いままでハイハイで移動していた距離も、壁に手をついたり、妻や僕の足にしがみつきながら足を交互に動かして移動するようになった。ある方向へ向かっている妻から、別の方向に向かう僕へと器用に乗り移る姿が、なんとなく『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い出させる。

◇FBのアカウントを実名で取り、それを仕事(ハスリング)用アカウントとしている。仕事柄、やっぱりどうしてもSNSを使うと楽なのでそうしているのだけれども、実名でネットを使う場合、かつての同級生/ネット上でのみやり取りする人/仕事の取引先/趣味の仲間/親戚など、様々なコンテクストを気にかけながら発言することになり、ネガティブに言えば「しがらみ」に捕われるということにはなるけれど、これはこれで面白いと思う。というか、発言中はあまりそんなことを気にしていないことに気付く。
 とはいえ、『ソーシャル・ネットワーク』を観てしまったせいか、やっぱりFBに童貞臭を感じてしまう。入会の際の異様なまでの実名“推奨”も話題になったけれど、こういった想定の範囲外を嫌うところや、しかしその内部はむちゃくちゃハイスペックで素晴らしく使い勝手が良いところなどを見ると、四畳半の内側に全てを配置する欲望が充満している気がしてならない。

◇ラッパーは、目の前に迫る、自分を追い立てる実名の時間を相対化すべく、別の時間軸に自分を用意する。普通に考えれば、実名の時間が「現実」で、別名の時間が「虚構」になるはずなのだが、しかしにも関わらず、別名でラップする際にはリアルが求められるのである。このことのひとつの回答として、「虚構」だからこそリアルを求めるのだ、というのもある。間違いではないけれど、でもそのままだとやはり言葉足らずで、「虚構」は「現実」の下位である、という主張の補強にもなり得てしまう。
 実名の自分が「素」で、別名の自分が「キャラ」を演じているわけではない。どちらも等しく自分であり、言ってみればどちらも「キャラ」を演じている。つまり、ひとつの、実名の時間にのみ身を委ねたままで居ると、それが「演じられた自分」であるという自覚を得ることはできない。別名の時間を立て、「虚構」のなかにリアルを求めることで、同時に「現実」のなかにもリアルを発見できるようになる。「現実」を無条件にリアルとしてしまう者は、そもそも「現実」のなかにリアルか否かという視点を持ち込まない。

◇「安東三」で作っていたアカウントは7月いっぱいで終了させ、新たにFBページとして「安東三」を作っておいた。http://www.facebook.com/and0h3

◇『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズ全話と、旧劇場版2作を観たせいで、多分こんなことを書いている。つまり本当の自分がどこかに居るという幻想は、大抵、居心地の良い空間に浸っていたいという欲求の表出だったりするのだと思う。

◇妻の実家で、妻が10ヶ月の頃の写真を眺めた。笑顔が息子とそっくりで、笑いがこみ上げてくる。結婚前から何度も見ている写真なので、妻の子供の頃の顔は知っているつもりだったが、あらためてアルバムを開かなければこのことに気がつかなかっただろう。日曜日に義父母と妻の誕生会を開いた際、息子を見ながら妻が乳児の頃を思い浮かべていた。