web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

◇テレンス・マリック『トゥ・ザ・ワンダー』

◇音楽とモノローグのうえを、映像と音が次々と切り替わる映画だった。多分、この映画の音声だけを切り取っても、全然いける。

 ところで、画面に映っているもののほとんどは動いている。もちろんこれは当然と言えば当然だけれど、『トゥ・ザ・ワンダー』に目立つのは、ひとつのシーンのなかに、異なった要因で動くものがいくつも平等に配置され続ける様子である。目まぐるしく移動する電車の外の風景と永遠にはしゃいでそうな車内の男女、ダンスに揺れるスカートと窓から入り込んだ風にゆれるカーテン、主要人物たちの会話と馬や牛やスクーターの発する音、そして、ストーリーのうえで何が起きようと、ほぼ全篇を通して吹き続ける風。人物やストーリー上の運動が連鎖して画面全体の動き=映像を決定するというよりも、それらの運動とは全く関係のない動きが常に目立つように映っている。このとき唐突に思い出したのは、前作『ツリー・オブ・ライフ』のラスト近くのシーンだった。http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20111016

 ひとりの男の記憶のなかに生命の起源までを含みこんで語られる『ツリー・オブ・ライフ』は、記憶のなかの登場人物を同一の映像のなかに収めて終わる。全てが男の物語になるべく、恣意性そのものをあからさまに提示して終わるわけだが、このすさまじく単線的な『ツリー・オブ・ライフ』と、『トゥ・ザ・ワンダー』のすさまじい錯綜は、ほとんど対になっているように思える。

 さて、今作のお話上のテーマに「愛」というのがあるけれど、仮にいま、ものすごくシンプルで、ほとんど馬鹿のような回答を用意するとしたら、ふたつ以上の異なるものをくっつけて考えるときに必要な、思索における接着剤のようなもの、と言えるかもしれない。途中、オルガ・キュリレンコが背中から倒れようとするところを、ベン・アフレックが何度も支えるっていう、むちゃくちゃに幸福なシーンがあるけれど、まさにあのふたりの動きの連なりが、例えば男女の間におけるひとつの「愛」の形だと観ることができる。だから反対に、子を失ったレイチェル・マクアダムズがベンアフレックをも失ったときに流れる映像は、全てが静止した家のなかの様子だったりする。全てが孤立して、何かの拍子に動き出す気配が全くない。

 物語的には、このレイチェル・マクアダムズが全てが静止した家に閉じ込められる恐ろしさがものすごく大切で、つまりこれをどのように超克すべきかっていうところがキーになっている。結局、オルガ・キュリレンコも子を失っているし、終わりにはベン・アフレックをも失うという意味で同じ状況に置かれるわけだが、しかし彼女が辿り着いたのは全く正反対に、幸福に満ちている。彼女のモノローグはなんと「ありがとう」で締めくくられたりするのだけれど、このとき映像は、ほとんど一枚の見事な写真のようなものが何度か連続する。風景の一瞬を切り取ったかのようなこのショットは、何かが動き出しそうな気配を常に孕み、いや目をこらせば木々の細かく震える様が見えているかもしれないし、被写体の奥から差し込むまばゆい光は常に動いているとも言える。つまり、全てが静止した家においては時間が停滞し続けるが、この見事な風景には一瞬が描かれ、常に既にどこまでも開かれている。「愛は永遠だ」というときの永遠とは、時間の停滞のことを意味しない。一瞬とイコールで結ばれる「永遠」のことである。

◇一寸先が闇かもわからない不安のなかで、でもそれでも未知なるものへ。っていうのが、そのまんま直球でタイトルになってるんだと思う。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20130909より抜粋。

午後2時半。昼寝と台風一過。

◇襲ってくる睡魔に抵抗し、泣きながら遊ぶ息子。やがて泣き声が止み、寝息が聞こえてくる頃には、外の風雨も収まっていた。

◇息子の2歳の誕生日に、妻が新幹線を模したごはんを作った。こういうのは苦手だと言いながら、ごはんと海苔と卵を駆使した見事なN700系ドクターイエローに、息子は大喜びしながらよく食べた。自分の誕生日と理解しているかは疑問だが、集まってくれた祖父母たちからたくさんのプレゼントを受け取って、その日は夜中まで興奮していた。プレゼントは、アナウンスや走行音の出るJR中央線のおもちゃと、ストライダーというペダルのない足漕ぎ自転車のようなものと、おもちゃの大工セット。それぞれのおもちゃは、その送り主の名で呼ばれている。ありがとうはまだ言えないが、こういう形で義理堅く感謝を示そうとしているのだと、両親はそう解釈している。

◇三人の生活が始まって、2年が経つ。大きくなったようでまだまだ小さい、小さいけれどずいぶん大きくなった。そんな複雑な気持ちを、妻と交わす。

宮崎駿風立ちぬ』。『トゥ・ザ・ワンダー』が物語の外から吹く風を浴び続けているのだとしたら、『風立ちぬ』は物語の内側に風を起こし、外に向かって吹いていく。
 動きの演出を完全にコントロールできるように思われがちなアニメーションは、しかしそこに風そのものを描くことはできない。「誰が風を見たでしょう、僕もあなたも見やしない、けれど木の葉を震わせて、風は通り抜けていく」。捉えることのできない風は、だから景色の変化を丁寧に追うことでしか感覚できない。僕達が見ることができるのは、風の軌跡だけである。

 これはたしかに、飛行機に夢を託す男の物語だということは間違いない。が、しかしもっと丁寧に言い直すならば、風を見る欲望に取り憑かれた男の物語なのである。二郎の飛行機は、強力なエンジンや頑丈な機体によって自らを駆動していくのではなく、風を全身に受けて軽やかに舞う。彼の飛行機は、つまり風を映し出す鏡なのである。
 どこへ向かって吹くのかわからない風に乗れば、想像のつかない景色だって観ることもできるだろう。もちろん、想像を絶する景色も同様に。しかしパイロットではない二郎は、風に乗ることなく、ただ風を見つめつづける。二郎にとっての現実とは、風を眺める時間のなかにしか存在しない。だから、飛行機が殺戮の道具となることを憂いながらも、その開発に勤しむし、病床に伏せる妻の傍らで、ついタバコに火を点けてしまう。近眼持ちの二郎は、「いまここ」の外側にしか描き得ない風だけを見つめている。
 風を眺めるような視線に晒される妻・菜穂子は、だから夫の記憶のなかに美しい姿のまま留まることを望むし、実際に浮世を離れた存在となることで、二郎にとっての現実のなかに、その姿をより鮮明に顕すようになったかもしれない。だからこれは、本当に残酷な話だ。

◇風が吹いているならば、生きなければならない。それは同時に、どこまでも外側でありつづける風に、どこまでも戦慄きつづけることを意味する。全くその通りだが、それを字義通り風への戦慄としなければならなかったのが、二郎の幸福であり不幸であると思う。美しい以外の菜穂子の側面にこそ、風と同じ外部を感じ取ることはできないだろうか。

午前0時。秋の夜の虫の声。

◇ちょっと前までは、0時過ぎまで蝉が鳴いていたのに。

◇息子の2歳の誕生日に用意したプレゼントを、やたらと高いところにしまう。最近は両親の会話も聴いているし体力もあるので、半端なところに隠していたのでは、自力で発見されそうである。

◇大分久々のブログ更新だけれど、引っ越しは無事6月に済ませた。妻の実家から徒歩圏内になったこともあり、義父母に色々とお世話になる機会が増えた。息子は広くなった家を体育館もしくはダンスフロアと捉えて動き回り、近頃は割と複雑な動きもできる。口の動きも同様で、発音の種類も増えた。が、そっくりそのまま親の発音をマネすることは少なく、「ぎゅうにゅう」が「あんにゅう」といった具合に語頭が無理矢理「あ」に置き換わっていたり、「ハリー」というぬいぐるみを「あっしー」と母音残しで呼んだり、「トランプ」を「ぷーあん」と、音を前後逆にして業界人っぽい言い回しで気取ってみたり、そうかと思えば「とうちゃん」「かあちゃん」と呼ばせようとする両親のことは「ぱぱ」「まま」と呼んだりする。ちなみに息子に名前を尋ねると、自分の胸を誇らしげに叩きながら「でー」と言う。この自称に関しては、どこから来た言葉なのか皆目見当がつかない。
 目の前のものごとを言葉に変換するということは、つまり今目の前にはないことであっても言葉として目の前に出すこともできるようになった、ということである。夜寝付くまでの間、息子にその日一日の出来事を語らせるのが妻の特技で、かなりオリジナルな単語になったそれを、丁寧なインタビューで聞き出していく。そうして単語と単語が繋がって物語になったとき、息子は嬉しそうに興奮してみせる。

◇高校生ラップ甲子園第3回もBBOYPARK2013もいけずにひたすらyoutubeで確認するに留まったけれど、日本語ラップのシーンは、見えやすくアクセスしやすい形で拡大している。もちろん、現場=ライヴ会場以外のメディアで展開されるシーンっていうのは、やっぱり現場のそれとはズレたものと認識すべきで、ちょうどそれはテレビにおけるお笑いと演芸場における笑いが違ったシーンを形成していることと同じだと思う。ただ、特にツイッターサウンドクラウド以降、日本語ラップはそういう風に一枚岩で語れないようになってきているな、と思って、豊かさを喜ぶばかり。
(16分辺りから)
ヒップホップもまた文脈の世界であり、異なる文脈のなかに放り込まれても、いかに自分のスタイルを出力するかが問われる。メイクマネーは、そのスタイルウォーズのひとつの指標であるが、それを第一義とするあまり自分のスタイルを見失ってしまえば、たちまちセルアウトとされるのである。MCバトルの現場で負けても、そのスタイルでプロップスをあげる例などいくらでもある。その意味でも、現場以外の日本語ラップへのアクセスポイントは重要だと思う。

テレンス・マリックトゥ・ザ・ワンダー』。音楽とモノローグのうえを、映像と音が次々と切り替わる映画だった。多分、この映画の音声だけを切り取っても、全然いける。
 ところで、画面に映っているもののほとんどは動いている。もちろんこれは当然と言えば当然だけれど、『トゥ・ザ・ワンダー』に目立つのは、ひとつのシーンのなかに、異なった要因で動くものがいくつも平等に配置され続ける様子である。目まぐるしく移動する電車の外の風景と永遠にはしゃいでそうな車内の男女、ダンスに揺れるスカートと窓から入り込んだ風にゆれるカーテン、主要人物たちの会話と馬や牛やスクーターの発する音、そして、ストーリーのうえで何が起きようと、ほぼ全篇を通して吹き続ける風。人物やストーリー上の運動が連鎖して画面全体の動き=映像を決定するというよりも、それらの運動とは全く関係のない動きが常に目立つように映っている。このとき唐突に思い出したのは、前作『ツリー・オブ・ライフ』のラスト近くのシーンだった。http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20111016
 ひとりの男の記憶のなかに生命の起源までを含みこんで語られる『ツリー・オブ・ライフ』は、記憶のなかの登場人物を同一の映像のなかに収めて終わる。全てが男の物語になるべく、恣意性そのものをあからさまに提示して終わるわけだが、このすさまじく単線的な『ツリー・オブ・ライフ』と、『トゥ・ザ・ワンダー』のすさまじい錯綜は、ほとんど対になっているように思える。
 さて、今作のお話上のテーマに「愛」というのがあるけれど、仮にいま、ものすごくシンプルで、ほとんど馬鹿のような回答を用意するとしたら、ふたつ以上の異なるものをくっつけて考えるときに必要な、思索における接着剤のようなもの、と言えるかもしれない。途中、オルガ・キュリレンコが背中から倒れようとするところを、ベン・アフレックが何度も支えるっていう、むちゃくちゃに幸福なシーンがあるけれど、まさにあのふたりの動きの連なりが、例えば男女の間におけるひとつの「愛」の形だと観ることができる。だから反対に、子を失ったレイチェル・マクアダムズがベンアフレックをも失ったときに流れる映像は、全てが静止した家のなかの様子だったりする。全てが孤立して、何かの拍子に動き出す気配が全くない。
 物語的には、このレイチェル・マクアダムズが全てが静止した家に閉じ込められる恐ろしさがものすごく大切で、つまりこれをどのように超克すべきかっていうところがキーになっている。結局、オルガ・キュリレンコも子を失っているし、終わりにはベン・アフレックをも失うという意味で同じ状況に置かれるわけだが、しかし彼女が辿り着いたのは全く正反対に、幸福に満ちている。彼女のモノローグはなんと「ありがとう」で締めくくられたりするのだけれど、このとき映像は、ほとんど一枚の見事な写真のようなものが何度か連続する。風景の一瞬を切り取ったかのようなこのショットは、何かが動き出しそうな気配を常に孕み、いや目をこらせば木々の細かく震える様が見えているかもしれないし、被写体の奥から差し込むまばゆい光は常に動いているとも言える。つまり、全てが静止した家においては時間が停滞し続けるが、この見事な風景には一瞬が描かれ、常に既にどこまでも開かれている。「愛は永遠だ」というときの永遠とは、時間の停滞のことを意味しない。一瞬とイコールで結ばれる「永遠」のことである。

◇一寸先が闇かもわからない不安のなかで、でもそれでも未知なるものへ。っていうのが、そのまんま直球でタイトルになってるんだと思う。

午後9時半。差し込む風が、秋のそれ。(書きかけ)

◇春の終わり、梅雨の前の季節は、なんとなく9月後半と似てる。

◇卒乳してから息子は睡眠も深くなっていたのだが、5月の上旬は夜中に目が覚めてしまう、という日があった。生え始めの歯が気になるのかもしれない。家の外に出ない限り泣き止まないので、僕はよく息子と深夜の川沿いを歩いた。暇に任せてオールしていた頃を思い出したりして、すると今自分の腹の前で寝息を立てている存在が、やたらと不思議に思えてくるのだった。

◇毎晩、寝かしつけが難しいのではあるが、それはそれである種団らんの時間でもある。
 僕らは先に寝たフリをする作戦を取っているのだが、まだ遊び足りない息子は、寝ているはずの両親にちょっかいをかけて真偽を確認する。二ヶ月程前のことだが、ごにょごにょと意味をなさない言葉、いわゆる喃語で絵本を音読していたかと思いきや、突然耳元にやってきて「ぎょうざ」などと小声で伝えてきたこともある。寝たフリ作戦もなかなか大変なのである。
 最近は「ぎょうざ」に限らず色々な言葉を覚え、挙動もかなり明確になってきたが、相変わらず「笑ってはいけない」状態は続いていて、疲れつつも幸福な時間を過ごしている。

◇およそ一ヶ月後に引っ越しを控え、ぼちぼちと荷詰めを始めている。空の箱で「エア入浴」をするのにハマっている息子がいるので、そちらも警戒しながら進めなければならない。とはいえ、本人としては邪魔するつもりも毛頭なく、むしろ手伝っているくらいの気持ちでいるので、その辺りをノセてやると捗るのであった。なんとなく、妻と似ている。

青野春秋『俺はまだ本気出してないだけ』。タイトルから、脆弱な自我を持った主人公の逡巡の話かと思ったが、むしろ40代で突然マンガを描き始めた男の、揺るぎない能天気な精神力に惹かれるように、その周囲の人間たちのドラマが展開していくのであった。普通に良い話で驚いた。

◇吉田大八『桐島、部活やめるってよ』。
(書き途中)

◇それにしても、やたらと不穏な空気が蔓延しているような気がして、なかなか滅入る。こういうものを観ていると、戦争なんて始まるときはすぐに始まるものなんだろうと思う。なんのリアリティも危機感もないまま、気付けば株価の値動きと同じノリで、毎日のニュースに戦況報告が紛れ込む…そんな様子が容易に想像できてしまう。逆を言えば、今なら英語学習が捗りそうなのである。

2012年日本語ラップベスト

◇2012年は終わりの年らしい、というネタでPUNPEEとBACHLOGICが相見えてから3年。いまや彼らはシーンを両側から引っ張る二大プロデューサーになっているわけだけれど、さて、それはそうと今年は日本語ラップの大変な当たり年でもあった。そういえば2012年終末説ってのは、世界が終わることではなくて、ひとつのサイクルが巡るって解釈もあるらしい。
 今年も2Dcolvicsさんにて「2012BEST ALBUMs In 日本語ラップ」の企画に参加させていただいたので、そのことについて手短に書いていく。ランキングはご覧の通り→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52157479.html
 まず、10位に選んだSALU『IN MY SHOES』。日本語ラップが到達したひとつの頂点として、クラッシックのひとつに数えられるのは間違いない。日本語の発話を細かく分割して自由自在にコントロールできるSALUは、精巧なオブジェとしてのラップを練り上げると同時に、リスナーとプレイヤーの間にしっかりと線を引く。両者は互いに干渉し合うことなく、完全に分断された場所からひとつの音楽に向かい合っており、その意味において、このアルバムにおけるSALUのラップはサイファーを囲むラッパーのそれではなく、コンサートホールの中央から聴衆に向けて朗々と歌い上げるヴォーカリストのそれだと思う。このときリスナーが捉えようとしているのは、SALUのラップそのものであり、ラップするSALUではない。ちなみにメモっておくけれど、ラップする身体を捉えるのか、ラップという歌を聴き取るのかについては、結構深く掘っていく価値のある問題だと思う。
 これとはまた別の角度から、リスナーとプレイヤーを区分しているのが3位のMoe and ghosts『幽霊たち』。『アラザル8』でも触れたけれど、Moeのラップもまた、彼女自身の身体の在処をどこまでもぼやかす。けれど、どうもその身体は「ないんだけれど、あるような気がする」もしくは「多分あるんだけれど、捉えられない」といった類のものであり、最終的には、その身体の不明瞭さそのものに焦点が合わせられている。例えば写真に写り込んでしまったノイズが人の顔に見えたりするように、レコードの上にしか存在しない「身体」というものがあり、そういったものに僕らは幽霊の身体を見る。ラップは、多かれ少なかれ日常口語に漸近するけれど、ひたすら歌声のまま、日常生活の口語行為に全く近づかずにラップするMoeの姿は、まさに「幽霊」そのものだろう。とはいえ、個人的な好みを言えば、隠しトラックで人間(a.k.a.生活者)としてのラップを披露するMoeもすごく魅力的。
 WATTER『WATTER』。完成度はそんなに高くないと思うけれど、変なラッパーと変なトラックをコーディネイトする能力に、ちょっとした凄みを感じて9位にしてみた。なんとなくPUNPEE周りは、MACKA-CHINみたいな変なセンスを纏っていて、いつもツボってしまう。で、それを見事にポップな方向に昇華すると、7位のLBとOtowa『インターネット ラブ』になる。リリックもライミングもキャラクター(声)も最高レベルだし、音楽産業を取り巻く各方面の状況も見据えて乗りこなす様子は、日本語ラップ界の大秀才といった気配。このアルバムを一位にしても、結構面白いランキングが作れる気がする。
 7位のERA『JEWELS』は、多分今年一番聴いた。m-floのタカハシタク的なソリッドでカラフルなサウンドの「きらびやか」もあるけれど、ERAは、例えば終電車の床の上に落ちたスパンコールの鱗だとか、オール明けの街でカラスがつつくゴミ袋から割れたガラスが反射しているだとか、そういう闖入する「きらびやか」を丁寧に描写する。むちゃくちゃ好き。で、4位のECD『DON'T WORRY BE DADDY』は、生活に闖入する「何か」を限りなく広げることで、あるべき「生活」のイメージといったものをどんどん取り壊して行ってしまう。たびたび挿入される目覚まし時計の音が、段々と目覚まし時計の音に聞こえなくなってくる様子が象徴的だけれど、生活というゲシュタルトが崩壊しても人間で居られるのは、夢をみることができるからなんじゃないか、なんてことを考えたりした。
 similab関連。5位のQN『New Country』と、6位のOMSB『Mr. "All Bad" Jordan』では、どちらを高順位にするか本当に迷った。結論から言えば、ラップのテクニックと今年のQNの頑張り具合を見てこういう風にしてみた。次回作やら今後の展開の期待から言うと、OMSBの方が上になる、ということは付け加えておく。対比させながら聴くと、QNはトラック選びやラップのこだわり方を聴くに、すごく繊細なところまで気をまわしていて、大味なところがなく上品にまとまっているけど、それがこじんまりとした印象も与える。OMSBは無骨さを隠さないラップと大胆なトラックメイクで、ちょっと有無を言わさない迫力。同じグループに居なくてもいいけど、いっしょに仕事する機会をどんどん増やして欲しいとは思う。

◇休憩。「2012 BEST on YouTube In 日本語ラップ」も選ばせていただいたので、よろしければそちらもぜひ→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52157471.html

◇上位2つは、心情的にはどちらも1位。両者ともにラッパーとしての魅力が溢れてる。

◇2位、MOMENT『UP DOWN』。


昨年リリースされたミックステープ『Joon Is Not My Name』に収録された『I LOVE HANDAI』は、まあ金もないけどそれなりに楽しけりゃいいじゃんね的な、一見イマドキの大学生っぽいとも言える雰囲気をまとっていた。韓国からの留学生という立場から見た日本の不思議なところが、そのまま日本の学生の“社会への疑問”といった視線とうまくくっついて、大学というアイデンティティを保留にしておける空間を描写していた。しかし、よくよくリリックに耳を澄ませば、ゆるい空間においてすら、他者としての自分への意識が常に働いている。彼の「とりあえず飲もう!」という声は、ぬるま湯のなか、いつまでも自他の境を曖昧にできる無邪気なそれとは異なり、パーティだけがそうした問題を取り払ってくれるということへの叫びであったりする。つまり、momentにはこのときから、大学生活の外側がはっきりと見えていたのだとも言えるだろう。
 今回のミニアルバムは、彼の入隊直前までレコーディングされたもので、外人ラッパーを自称する彼のドキュメントとしても非常に貴重なものになっている。全体を通して前に出ているのは、彼の「迷い」であるが、それは言い換えれば「揺らぎ」でもある。言語、学生生活と兵役、日本社会における外人、といった具合に、テーマのなかに複雑に絡まり合った二つ以上の事情を用意し、韻を踏みしめながらリリックを前に進めていく。シンプルな押韻にも関わらず豊かにグルーヴするのは、3カ国語を咀嚼する彼の身体に依るものであり、複数の事情の間で揺れる彼の苦悩に依るものでもある。そのいくつもの側面の、いずれをも否定することなく、そして引き裂かれることのないまま、momentは“individual”をラップによって提示する。

2年間の兵役を終えて阪大に戻った彼に、軍人としての規律生活について聴いてみなければならない。勉強しとかないと。

◇1位はKOHH『YELLOW T△PE』。


ちょっとだるそうに、大好きなギャルやファッションについて延々歌うのがすごくいいと思って、早速ミックステープを購入してみたのだけれど、予想外というか、ちょっと感動してしまった。“自分の興味あることだけ歌う”という姿勢は、ある決意に貫かれていた、という事実を目の当たりにしてしまったのである。
 13曲目『FAMILY』は、KOHHの家族をテーマに、2歳の頃に亡くなった父、向精神薬と大麻を手放せなくなった母、弟の流産と、その後の妊娠で無事生まれてきた10個下の弟(LIL KOHH)のこと等が淡々と歌われるのだが、彼はそれを「普通の家族さ」「君と違うだけ」とさらっと言い切っている。自らの境遇に対するこのような距離感は、僕に古谷実の作品を思い起こさせた。事実、3曲目『I NEED HER(REMIX)』の「おちんろんとおまんろんがンパンパ」というリリックは『僕といっしょ』からの引用だったりもするのだが、さて、その『僕といっしょ』の主人公すぐ起とイトキンは、「爆笑」という手段を身につけることによって、圧倒的な暴力に晒されつづける“人生”をサバイブしていたことを思い出してみる。この「爆笑」にあたるものが、KOHHにとっての「ラップ」であるというのは間違いないだろう。SALU『STAND HARD』が、KOHHの手にかかれば「歩いてるだけでやたら目につくカワイイコ」になってしまうように、いかなる状況でも彼はギャルへのエロい視線を送らずにはいられない。暴力に真っ向から対峙するのではなく、その隙間を縫うように駆け抜けること。それが、KOHHの示すサバイバルである。

 ところで、僕には主人公であるすぐ起の姿が、KOHHと重なって見えているのだが、どうだろう。少なくとも、彼はすぐ起&いく夫兄弟を、どう読んだのだろうか。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20121228より抜粋

午後五時。明るい家路。

◇仕事が一段落したので、定時より一時間ほど早く上がることにした。一年のなかで最も寒いが、同時にびっくりするくらい暖かい日もあるのが2月だったりする。

◇もう一ヶ月以上も前のことになってしまうのだが、息子が無事卒乳した。
 年末年始の9連休に断乳を決行。乳が欲しくて泣き続ける夜もあれば、笑いながらパタンと寝てしまう夜もあり、そんなのを繰り返しているうちに、連休が明ける頃にはなんとなく入眠スタイルが出来上がりつつあった。なぜか妻の顔を触りながら寝るのである。

◇一月の連休は、小学校からの腐れ縁たちと日帰り温泉旅行へ行ってきた。僕らは高校時代にバンドを始めて以降、一緒に暇な時間を持て余してきたのだが、やはり実家を離れるとなかなかそういうわけにも行かない。そんななか、なんとなく一昨年あたりから年末の日帰り温泉旅行というのが恒例行事化してきたのだった。とはいえ、なんだかんだフルメンバーで行けたのは初めて。今年は仲間内の二人が結婚する。
 そのうちのひとりは、僕と同様就職が遅れたクチだが、最近電車の運転士免許を無事取得し、僕のうちの近所を走る交通機関で働くことになっている。僕の家族の姿を見かけたら、ホーンを軽くならしてくれると言う。

◇『レ・ミゼラブル』。歌い手の顔をスクリーンいっぱいに映し、歌声を細かくしっかりとマイクで拾いながら、微細な筋肉の動きや息遣いを丁寧に記録していく。それはまさにフィクションのフォーマットに乗っかったドキュメンタリなのだが、ところでふと、大友克洋の画もそのようなものではないかと思ったりした。
 何かをひとつの画のなかに描写するという時点で、恣意性は免れ得ないが、というかそれは積極的で自覚的な作為のうえにようやく成り立つものだったりもする。再び顕われたアン・ハサウェイは、それを毅然とした態度で暴露してしまう。

◇『アルゴ』。ハリウッドとアメリカがそのままイコールで結ばれた、幸福な映画だった。宇宙を舞台にすれば、あらゆる人間が対話可能になる。「偽装だけが銃から身を守るんだ」というのは今年一番のパンチラインだと思う。

午後11時。真冬のブルーベリー。

◇息子が寝静まると、妻とふたりでお茶を飲む。
 夏に穫ったブルーベリーが冷凍庫に眠っていたので、部屋を充分温かくしてから食べる。

◇今年のクリスマスは短かった。
息子のプレゼント「2カラーせんせい」を開けるや否やすぐ出社しなきゃなんなかったし、ならばと少しでも早い帰宅を試みるも、結局帰ったのは23時過ぎ。家では妻と息子がすやすや眠っていて、翌朝の食事の下準備と、中途半端に片付けられたクリスマスツリーがあった。息子を寝かしつけた妻が、ツリーの片付けに取りかかった頃、ちょうど息子がまた泣きだしたのだろう。目に浮かぶ。皿洗いをして、ひとりツリーの片付けをしていると、息子に渡したプレゼントが目に入った。ボードには赤と黒のペンで二頭ずつ、熊の顔がある。この熊は断乳の時、子供に授乳の終わりを告げるために、おっぱいに描かれる予定のものだ。

◇2012年は終わりの年らしい、というネタでPUNPEEBACHLOGICが相見えてから3年。いまや彼らはシーンを両側から引っ張る二大プロデューサーになっているわけだけれど、さて、それはそうと今年は日本語ラップの大変な当たり年でもあった。そういえば2012年終末説ってのは、世界が終わることではなくて、ひとつのサイクルが巡るって解釈もあるらしい。
 今年も2Dcolvicsさんにて「2012BEST ALBUMs In 日本語ラップ」の企画に参加させていただいたので、そのことについて手短に書いていく。ランキングはご覧の通り→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52157479.html
 まず、10位に選んだSALU『IN MY SHOES』。日本語ラップが到達したひとつの頂点として、クラッシックのひとつに数えられるのは間違いない。日本語の発話を細かく分割して自由自在にコントロールできるSALUは、精巧なオブジェとしてのラップを練り上げると同時に、リスナーとプレイヤーの間にしっかりと線を引く。両者は互いに干渉し合うことなく、完全に分断された場所からひとつの音楽に向かい合っており、その意味において、このアルバムにおけるSALUのラップはサイファーを囲むラッパーのそれではなく、コンサートホールの中央から聴衆に向けて朗々と歌い上げるヴォーカリストのそれだと思う。このときリスナーが捉えようとしているのは、SALUのラップそのものであり、ラップするSALUではない。ちなみにメモっておくけれど、ラップする身体を捉えるのか、ラップという歌を聴き取るのかについては、結構深く掘っていく価値のある問題だと思う。
 これとはまた別の角度から、リスナーとプレイヤーを区分しているのが3位のMoe and ghosts『幽霊たち』。『アラザル8』でも触れたけれど、Moeのラップもまた、彼女自身の身体の在処をどこまでもぼやかす。けれど、どうもその身体は「ないんだけれど、あるような気がする」もしくは「多分あるんだけれど、捉えられない」といった類のものであり、最終的には、その身体の不明瞭さそのものに焦点が合わせられている。例えば写真に写り込んでしまったノイズが人の顔に見えたりするように、レコードの上にしか存在しない「身体」というものがあり、そういったものに僕らは幽霊の身体を見る。ラップは、多かれ少なかれ日常口語に漸近するけれど、ひたすら歌声のまま、日常生活の口語行為に全く近づかずにラップするMoeの姿は、まさに「幽霊」そのものだろう。とはいえ、個人的な好みを言えば、隠しトラックで人間(a.k.a.生活者)としてのラップを披露するMoeもすごく魅力的。
 WATTER『WATTER』。完成度はそんなに高くないと思うけれど、変なラッパーと変なトラックをコーディネイトする能力に、ちょっとした凄みを感じて9位にしてみた。なんとなくPUNPEE周りは、MACKA-CHINみたいな変なセンスを纏っていて、いつもツボってしまう。で、それを見事にポップな方向に昇華すると、7位のLBとOtowa『インターネット ラブ』になる。リリックもライミングもキャラクター(声)も最高レベルだし、音楽産業を取り巻く各方面の状況も見据えて乗りこなす様子は、日本語ラップ界の大秀才といった気配。このアルバムを一位にしても、結構面白いランキングが作れる気がする。
 7位のERA『JEWELS』は、多分今年一番聴いた。m-floのタカハシタク的なソリッドでカラフルなサウンドの「きらびやか」もあるけれど、ERAは、例えば終電車の床の上に落ちたスパンコールの鱗だとか、オール明けの街でカラスがつつくゴミ袋から割れたガラスが反射しているだとか、そういう闖入する「きらびやか」を丁寧に描写する。むちゃくちゃ好き。で、4位のECD『DON'T WORRY BE DADDY』は、生活に闖入する「何か」を限りなく広げることで、あるべき「生活」のイメージといったものをどんどん取り壊して行ってしまう。たびたび挿入される目覚まし時計の音が、段々と目覚まし時計の音に聞こえなくなってくる様子が象徴的だけれど、生活というゲシュタルトが崩壊しても人間で居られるのは、夢をみることができるからなんじゃないか、なんてことを考えたりした。
 similab関連。5位のQN『New Country』と、6位のOMSB『Mr. "All Bad" Jordan』では、どちらを高順位にするか本当に迷った。結論から言えば、ラップのテクニックと今年のQNの頑張り具合を見てこういう風にしてみた。次回作やら今後の展開の期待から言うと、OMSBの方が上になる、ということは付け加えておく。対比させながら聴くと、QNはトラック選びやラップのこだわり方を聴くに、すごく繊細なところまで気をまわしていて、大味なところがなく上品にまとまっているけど、それがこじんまりとした印象も与える。OMSBは無骨さを隠さないラップと大胆なトラックメイクで、ちょっと有無を言わさない迫力。同じグループに居なくてもいいけど、いっしょに仕事する機会をどんどん増やして欲しいとは思う。

◇休憩。「2012 BEST on YouTube In 日本語ラップ」も選ばせていただいたので、よろしければそちらもぜひ→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52157471.html

◇上位2つは、心情的にはどちらも1位。両者ともにラッパーとしての魅力が溢れてる。

◇2位、MOMENT『UP DOWN』。


昨年リリースされたミックステープ『Joon Is Not My Name』に収録された『I LOVE HANDAI』は、まあ金もないけどそれなりに楽しけりゃいいじゃんね的な、一見イマドキの大学生っぽいとも言える雰囲気をまとっていた。韓国からの留学生という立場から見た日本の不思議なところが、そのまま日本の学生の“社会への疑問”といった視線とうまくくっついて、大学というアイデンティティを保留にしておける空間を描写していた。しかし、よくよくリリックに耳を澄ませば、ゆるい空間においてすら、他者としての自分への意識が常に働いている。彼の「とりあえず飲もう!」という声は、ぬるま湯のなか、いつまでも自他の境を曖昧にできる無邪気なそれとは異なり、パーティだけがそうした問題を取り払ってくれるということへの叫びであったりする。つまり、momentにはこのときから、大学生活の外側がはっきりと見えていたのだとも言えるだろう。
 今回のミニアルバムは、彼の入隊直前までレコーディングされたもので、外人ラッパーを自称する彼のドキュメントとしても非常に貴重なものになっている。全体を通して前に出ているのは、彼の「迷い」であるが、それは言い換えれば「揺らぎ」でもある。言語、学生生活と兵役、日本社会における外人、といった具合に、テーマのなかに複雑に絡まり合った二つ以上の事情を用意し、韻を踏みしめながらリリックを前に進めていく。シンプルな押韻にも関わらず豊かにグルーヴするのは、3カ国語を咀嚼する彼の身体に依るものであり、複数の事情の間で揺れる彼の苦悩に依るものでもある。そのいくつもの側面の、いずれをも否定することなく、そして引き裂かれることのないまま、momentは“individual”をラップによって提示する。

2年間の兵役を終えて阪大に戻った彼に、軍人としての規律生活について聴いてみなければならない。勉強しとかないと。

◇1位はKOHH『YELLOW T△PE』。


ちょっとだるそうに、大好きなギャルやファッションについて延々歌うのがすごくいいと思って、早速ミックステープを購入してみたのだけれど、予想外というか、ちょっと感動してしまった。“自分の興味あることだけ歌う”という姿勢は、ある決意に貫かれていた、という事実を目の当たりにしてしまったのである。
 13曲目『FAMILY』は、KOHHの家族をテーマに、2歳の頃に亡くなった父、向精神薬大麻を手放せなくなった母、弟の流産と、その後の妊娠で無事生まれてきた10個下の弟(LIL KOHH)のこと等が淡々と歌われるのだが、彼はそれを「普通の家族さ」「君と違うだけ」とさらっと言い切っている。自らの境遇に対するこのような距離感は、僕に古谷実の作品を思い起こさせた。事実、3曲目『I NEED HER(REMIX)』の「おちんろんとおまんろんがンパンパ」というリリックは『僕といっしょ』からの引用だったりもするのだが、さて、その『僕といっしょ』の主人公すぐ起とイトキンは、「爆笑」という手段を身につけることによって、圧倒的な暴力に晒されつづける“人生”をサバイブしていたことを思い出してみる。この「爆笑」にあたるものが、KOHHにとっての「ラップ」であるというのは間違いないだろう。SALU『STAND HARD』が、KOHHの手にかかれば「歩いてるだけでやたら目につくカワイイコ」になってしまうように、いかなる状況でも彼はギャルへのエロい視線を送らずにはいられない。暴力に真っ向から対峙するのではなく、その隙間を縫うように駆け抜けること。それが、KOHHの示すサバイバルである。

 ところで、僕には主人公であるすぐ起の姿が、KOHHと重なって見えているのだが、どうだろう。少なくとも、彼はすぐ起&いく夫兄弟を、どう読んだのだろうか。

◇推敲というか、最近全然書けないので公開が遅くなってしまった。

◇書けないというのは、時間的な問題ではなくて、そのままの意味で「書けない」ということだったりする。