web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後6時。ごはんどきのしりとり。

◇息子が食事よりもしりとりに夢中になっていると、娘も一生懸命ゲームに入ってくる。ルールを理解しているわけではないので、とにかく自分が今言いたい単語を羅列しているようだった。あるいはそういうルールだと理解したのかもしれない。

◇娘は頭文字一文字だけで会話を成り立たせる。朝の支度がなかなか進まない息子に早くしなさいと急かすと、娘も、「に、は」と言う。兄もそれが「にいにい、はやく」と話しているのだと理解しているから「わかった」とか、あるいはばつが悪くて「しずかにしなさい」と答えたりする。
 どうしても上の子と比較してしまうのだが、息子のときはここまで会話が成り立っていなかったと思う。いや、おそらくこちらが話していることも理解しているし、息子が伝えたいことも伝えていたのだが、それは意図の伝達という目的がはっきりと前に出ていた。しかし娘の場合、会話のやり取りそのものを楽しんでいるように見える。娘の要求にこちらが沿えないときに、それを伝えると物分かりよく納得してくれるというのも、つまりそういうことなのだろう。こういうのは「女の子らしい」のか、それとも「下の子らしい」のか。

◇お気に入りのスーパーにいくという話になると、娘は必ずドキンちゃんの赤いポーチと猫の柄の赤いバッグを持ち、ミニーちゃんの尻尾を掴んで玄関に向かう。外出とおめかしをセットで捉えるという感覚がすでにあることに驚く。これはやはり「女の子らしい」のだろうか。

◇兄の方はというと、プラレールを器用につないで回転寿司レーンを作っている。近所の回転寿司店が閉店して以来、クレヨンと折り紙とセロテープを使って握り寿司を用意し、回転寿司の再現に熱中している。入店時にタッチパネル(もちろんこれも自作)の使い方を案内し、こちらの注文に合わせて寿司を流し、割引券やおもちゃのガチャガチャが当たるルーレットも回して、忙しそうに立ち回っている。娘と私は常連で、いつもあじとつぶ貝ばかり頼み、そしてほとんどいつも当たりくじを引く。
 いつも習い事で進級があるたびに回転寿司に行っていたのだが、次回からどこへ行けばいいだろうと、妻とふたり、子供が寝静まってから話した。

◇先週は久々に高熱に悩まされ、今もまだなんとなく胃がすっきりしない。アラザルの締め切りは過ぎている。仕事はまた来週から忙しくなるので、今週中になんとかしなければならない。

◇PSG現る。

◇少し前、BADHOPのラジオで出てきた「内なるJ」というフレーズがクリティカルで、日本語ラップヘッズたちはかなり楽しんでそのことを話題にした。J-pop的要素の強いラインが出てきてしまったとき、彼らは「内なるJが出ている」と指摘し合って審級するのだそうだ。
 この「J」が彼らの言う通りジャパンの「J」であれば、これは日本語ラップが孕む問題に終始する。もちろんそれは大前提なのだが、もうひとつ、この「内なるJ」の「J」というのは、「J-pop」などに表象される「ジャパン」であるだけでなく、「自分」とか「自己」の頭文字なのではないかと思ったりする。彼らが「内なるJが出てる」と言ってダメ出しをするとき、例えば自己陶酔の度合を強くし過ぎてトラックを無視してしまうような、自分という身体への意識を失う状態を避けているのかもしれない。「内なるJ」に支配されてしまう状態。
 日本語ラップは、日本と現代と美術の間に中黒を打たなければならないという、あの「悪い場所」という問題を必ず扱う。だからもちろん、今回の「内なるJ」を試しに「悪い場所」に置き換えて語ることは可能だろう。ただそれは日本で起こる表現のすべてにつきまとっている問題であり、日本語ラップはそのサンプルとしてよく機能するということに過ぎない。日本語ラップそのものを語るためには、やっぱり日本語「ラップ」のことも同時に考える必要がある。トラックという外在的な時間をどう自分の時間とするのか、というラッパーの意識に則して考えることで、ようやくそこに音楽と生活の問題を見出すことができるだろう。ラッパーの倫理は時間をどのように意識するか、というところにある。USラップを、影として日本に迫るアメリカとして見るだけではなく、自分の身体を忘却したいという欲求をあぶりだすための試金石として機能させることもできるはずだ。

◇トラックが要らないというのなら、それはラップであることをやめるだろう。当たり前だが、ラップをすることだけが、ラッパーをラッパーたらしめる。

◇BADHOPが「内なるJ出てるよ」と言い出したのと同様、かつて「チャックを上げなよ お前がはみ出てるよ」と指摘したのはPUNPEEだった。初のソロ作となる『MODERN TIMES』はまさに、自分と自分を取り巻く時間の間にどのような関係を切り結ぶかを考えた作品だと思う。ラッパーにとってのトラック論/トラックメイカーにとってのラップ論である。
 SOULSCREAMが1999年にイメージした『2018』を引き合いに出しながら、2017年に想像/創造する『2057』を考えることで、日本語ラップそのものの変化を語ることはできるだろう。しかし、『2018』を語る視点が今から未来を眺めるものであったのに対し、『MODERN TIMES』はそれを聴いている今を過去のものにしようとする、という違いに着目すると、それは日本語ラップの問題から、ラップミュージックの問題へと射程を広げることができる。

◇『MODERN TIMES』は思いっきり「自分がはみ出ている」作品だともいえるし、というか、はみ出る自分をどう扱うか、どういう時間の中に置くか、というのが極めて明瞭な作品だと思う。その意味においては「はみ出ている」という、さも自分では気づいていないような表現は適切ではなく、意図的に「はみ出させている」と言った方がいい。
(いつかつづく)

午後2時。なかなかブランコの止まらない。

◇娘がいつのまにかブランコを漕ぐようになっていた。座ったまま足を使わず、揺れるリズムに合わせて、体重移動だけで漕いでいる。メトロノームのように一定のリズムだ。

911は我が家では息子の誕生日であり、私と妻が親になった日のことである。

◇1歳8カ月を過ぎて、娘はなんだかおしゃれに気を遣う。洋服のコーディネイトや小物はもちろん、おむつの柄にもこだわりがあるようだ。おしゃれは見えないところからということだろうか。

◇先日は私のライヴがあり、そのちょうど一週間前には息子のピアノの発表会があった。
 もともと緊張しまくるはずの私が、14年ぶりのライヴでもそこまで緊張しなかったのは、先週の息子の様子を見ていたせいかもしれない。失敗を嫌がる傾向のあった息子が、なぜだかここ最近、やたらと思い切りがいい。舞台袖まで付き添ったが、リラックスし過ぎていてこちらが心配になるほどだった。出来はまあ、リハのときよりもテンポが遅くなってしまったというのはあったが、本番でも小声で歌いながら演奏していたし、練習とさほど変わりない様子で淡々とこなしていた。
 わからないことがわかるようになる、できないことができるようになるという感覚を覚えてくれているのであれば、これほどうれしいことはないと思う。私がそれを自覚できるようになったのは、本当につい最近の話だ。

◇9月9日は、なんだかアラザルメンバーが活発になる日だそうで。昨年はアラザル山本浩生の個展があり、今年は諸根陽介のライヴと杉森大輔&私のライヴが思いっきり被っていた。来年は何かあるのだろうか。
 というわけで先日のライヴは大変楽しめた。杉森さんが誘ってくれたこのジャズバンドという形式が、おそらくちょうどいい感じにしてくれたんだと思う。流行りに乗らなきゃいけないというヒップホップゲームの外だというのも大きい。ただ、さすがにもう少しはラップうまくなりたい。

◇個人的には、ゆるふわギャングと唾奇はきれいなコントラストを描いていると思う。ゆるふわギャングが素晴らしいのは疑いようもない事実だが、最近は唾奇とsweet williamのコンビに持っていかれている。90年代からの接続を感じているのだと思う。

◇リアルとフェイクは表裏の関係にあるというよりも、同一線上にある場合も少なくない。ヒップホップにおいては、フェイクはリアルに先行してコンセプトだけを提示している状態でもある。いわばプレ・リアルとしてフェイクがあり、そのあとには必ずリアルな奴らが現れる。
 リアルを「本物」と訳した場合はそういうことになるが、「現実」と訳す場合、対比されるフィクションというのはどういうものなんだろうか。フィクションは、いうまでもなく現実の映し方でしかない。いかなる現実も、フィクションを通さない限り提示できない。こうした理解においては、ドキュメンタリ/ノンフィクションは広義のフィクションに含まれるということになるわけだが、個人的にはそれで問題ないと思っている。
 「本当のこと」はフィクションを通じて描かれる。その意味においては、コンセプト重視のフェイク野郎であっても「本当のこと」を語ることは可能だし、反対に実体験を語るはずのリアルなやつらが「本当のこと」を歪曲してしまうことだって可能である。

◇そして私には、ポスト・トゥルースというのがいまいちよくわからない。

◇今年の日本語ラップは大豊作だけども、これはたまらなくいい。

「童貞。をプロデュースの現実」vs.「加賀賢三氏の現実」はあり得ない

◇『童貞。をプロデュース』の舞台挨拶で、松江哲明監督に童貞1号役を演じた加賀賢三さんが告発をしたらしい。いつ削除されるかもわからないけれど、とりあえず現時点ではyoutubeでその様子が確認できる。

◇たしか下北沢のシネマアートンだったろうか。加賀さんが出演した第一作の『童貞。をプロデュース』を観て、そのいくらか後に梅沢さんを主人公にした『童貞。をプロデュース2』も観て、それから10年前の池袋シネマロサで現在の編集版『童貞。をプロデュース』を2回観たと思う。それから当時、この作品に関するブログや記事も結構読んでいたと思う。それだけこの作品は当時の、そして今の、私に重要な問題意識を残したということである。
 その辺りは、アラザル1号目『古谷実論』と2号目『童貞論』にまとめてあって、基本的な考え方はそこに詰まっているんじゃないかと思う。再読してないのでわからないが。
 まあそれはいいとして、今回は童貞的自意識の話とかよりも、先日の一件によって、ドキュメンタリが提出する現実について思いをはせることになった。というのも、『童貞。をプロデュース』が提出した問題のなかで、当時の私は童貞考察の部分しか考えていなかったのを思い出した。これは必ずしも『童貞。をプロデュース』に限った話ではないが、『あんにょんキムチ』からずっと、松江監督は確固たるドキュメンタリ論を展開していると考えられるからである。今回の騒動は、まさにその論に基づいた作品づくりの結果でもあるからだ。
 ちなみに、私は舞台挨拶には行くつもりはなかったが、今回の上映期間中に再観賞するつもりではあった。個人的には残念だが、仕方がないことでもあるし、今後の展開に期待する方向で考えたい。

◇『童貞。をプロデュース』、および今回の一件を考えるにあたって、前提として踏まえておかなければならないことがある。森達也ドキュメンタリーは嘘をつく』の主題である。
 松江監督はデビュー作である『あんにょんキムチ』から今まで、この『ドキュ嘘』で語られるようなことを念頭に置きながら、ドキュメンタリ作品をつくり続けていると思う。
 『ドキュ嘘』が否定するのは、「フィクションとは違ってドキュメンタリは、実際に起きている現実をそのまま映すものである。だからそれは真実を映す鏡であるに違いない」という素朴で純情な認識だ。しかしそれを否定するからといって、ドキュメンタリは「嘘である」と言い切るわけでもない。そこに映った事実の一側面を浮かび上がらせるのがドキュメンタリなのであって、だからこの作品のタイトルは、「嘘をつく」に留まる。つまり嘘は悪ではない。嘘はどうしても映り込むだろうし、あるいは積極的に嘘を投入していくことで事実を浮かび上がらせることもできるのである。

◇その意味でいえば、ドキュメンタリはフィクションのいちジャンルであると考えることも可能だろう。ただ、ドキュメンタリの場合は、作品を構成する素材が現実に存在しているものである。私たちが生活を営むこの世界と地続きのものである。まさにそれが、今回のような一件を引き起こしやすくなる要因ではある。

◇いくらドキュメンタリといえども、作品として、つまり一個の完結した世界を作る以上は、それは作品内世界に閉じる。そこで描かれる世界にアクセスするためには、観賞という手段しかない。制作者であれ、出演者であれ、ひとつの作品がすでに出来上がった以上は、全ての人間は観賞という形でしか作品の世界に接触することはできない。もちろん、ドキュメンタリの場合はその作品に登場する人物も、扱われる事件も実在するし、だからそれら作品の構成素材自体に直接接触することはできるはずだ。しかし、結果的に作品に描かれる世界には、その作品の「鑑賞」なくしては触れることができない。フィクションのいちジャンルであるというのはそういう意味だ。
 だから「観賞」は、当事者としてその作品の世界に飛び込む行為となる。観賞という行為を介すことによって、作品に描かれる世界は「現実」となる。作り話である小説に心打たれるのは、それが現実として鑑賞者に迫るからだ。
 基本的に観賞は、安全圏から他人事のように眺めるということではない。鑑賞者は常に集中力を持って当事者性を持つ努力を強いられるし、あるいは他人事として鑑賞されることを想定して作られる作品は、一般的に駄作とされる。

◇『童貞。をプロデュース』は、加賀氏が糾弾する例のシーンも、前編最後の突き刺さるようにまっすぐカメラを見つめる女の子の目線も、後編の梅ちゃんのスクラップ制作過程も、監督した映像作品も、あらゆる場面に痛みが満ちていた。鑑賞者はまさに当事者としてこれらの出来事を体験することになる。
 作品の力のみによって鑑賞者に当事者性を持たせることができるという意味で、これは優れたドキュメンタリだったと思う。そしてもちろん、それは優れたフィクションであることをも意味している。しかし当然のことながら、観賞という行為を介さない限りアクセスできない現実であり、ビデオカメラなくしては立ち上がらない現実である。だから、松江哲明のビデオカメラがないまま、この作品内で起きた出来事を眺めたら、それは『童貞。をプロデュース』に描かれた世界を作らないし、また別種の現実が起きているはずだ。
 松江監督のビデオカメラなしで、同じ出来事を目撃・体験したのが、加賀賢三氏であるのは言うまでもない。

◇今回の舞台挨拶上の告発は、『童貞。をプロデュース』という「作品が提出する現実」と「加賀賢三の現実」が激しく衝突した例となった。

◇ここで重要なのは、これが作品上映後の舞台挨拶という極めてあいまいな場で行われたことだった。その場に居合わせる人はおそらく、作品の延長線上の人物として彼らを捉えることになるだろう。ドキュメンタリはフィクションではあるが、私たちが暮らすこの世界のうえに「別の世界」を作りあげる類のフィクションだからだ。しかし、フィクションの宿命である「作品の提示する世界には、観賞以外にアクセスする手段はない」に則て考えるならば、舞台挨拶の場で起きることは、作品のある位相とはズレた、また別の現実である。上映後の舞台にドキュメンタリの出演者があがるということ自体、こうした極めてあいまいな場を用意する。
 加賀さんとのやり取りのなかで、松江監督が放った「俺は今この場ではそういう話はしない」という発言は、観賞以外の方法で、作品の外から『童貞。をプロデュース』の世界に触れることへの拒否だったのだと思う。それは作家としては当然の態度だろう。

◇その視点に則るならば、実際に強要があったか否か、実際に傷ついた人がいるのか否か、というのは確かに作品とは無関係の話になる。ただ、とはいえ松江監督や加賀さんの人間関係や社会生活上の問題としては、それは大問題であり、監督としてではなく、人間としてどうこの問題に接するのかという問題は突きつけられて然るべきだろう。
 つまり「加賀賢三の現実」と「童貞。をプロデュースの現実」の勝負にはなり得ない。「加賀賢三の現実」が、事実としてどうだったのかを重視するならば、それは「松江哲明の現実」と「加賀賢三の現実」の戦いに過ぎない。そちらの方は事実の検証なり法廷闘争なりで戦うことになるだろうが、加賀さんがもしも「童貞。をプロデュースの現実」と戦うのならば、加賀さんはなんらかの形で作品を作らなければならないのである。
 そしてそう考えると、舞台挨拶上で引き起こされたあの一連の騒動そのものが、「加賀さんが作品として提出した現実」なのではないか、と思えてくる。つまり、上映後の余韻が残る状態――童貞1号という役がうっすらまとわりついている状態から、それとはまったく違う現実を提示して見せることに、あの場に居合わせた人はまずショックを受けるだろう。ただ、そのショックは、『童貞。をプロデュース』という映像作品の強さの証明でもあることは考えておかなければいけない。

◇ところで、この話と直接関係ないところで個人的に気になるのは、上映後の舞台挨拶というのは作品の延長線上にあるだろうか、ということ。上に述べたように、もちろん原理的には延長でもなんでもなく、別モノではある。そうではなく、感覚的に、延長線上に感じるような実感が、いま、どれだけの人に共有されるだろうか、ということ。
 言い換えれば、これは松江監督があの物語をどこまでリアルガチだと思わせたかったのかという話だし、『童貞。をプロデュース』がなぜドキュメンタリとして制作されなければならなかったのかという話でもある。おそらくは、ドキュメンタリの文法を駆使するのに長けているから、というのが実制作上の理由だろう。その手法を徹底的に駆使することでしか立ち上がらない世界ではある、たしかに。ただ、私が気になるのはむしろ、ドキュメンタリの手法を用いることで、あの作品がこれだけのプロップスを集めたという、その現象が気になるのである。
 そしてこれはなんとなくなのだが、おそらくSNS的な感性と無関係ではないと思う。『童貞。をプロデュース』制作時期に照らせば、web2.0とか言った方がいいんだろうけれども。
 つまり、当事者意識の話だ。


※上記記事は以下ブログより抜粋。
2017-08-27 - 日々:文音体触 〜compose&contact〜

午後5時。風の温度。

多摩動物園を歩き回っても、汗がすぐにひく。

◇もうずいぶん暑さも和らいだ。ふだん暑い暑い言ってるくせに、あんまり暑くない日が続くと、もう夏が終わるんじゃないかと焦り始める。今年は8月に入って以降、ずっとそんな感じだった。ほんとにもう、そうこうしているうちに夏が終わる。

◇息子と娘が糸電話で遊んでいた。お互いに紙コップを口に当て、発信するばかり。

◇今年は資金難から仕事を詰め込まなければならず、8月は普段よりも忙しい月になってしまった。毎年恒例の諏訪湖の花火大会にも行けずじまいだし、おたまじゃくしを捕まえることもできなかった。
 今年は幼稚園が8月最終週から始まると聞いて、慌ててざりがに釣りをしたり、風呂に迷い込んできたカエルを捕まえて記念撮影をしたりした。幼稚園からもらってきた稲を、妻と息子が育ててくれたりして、大変助かったのだが、問題は遠出だった。大宮の鉄道博物館や四谷の消防博物館、そして本日の動物園でタイムアップだった。ちょうど校了や締め切りと重なって大変だったが、まだまだやりたいことはたくさんある。

◇娘はあまり不機嫌にならない。というか、不機嫌であったり、気に入らないことがあっても、あまり長引かずに割とすぐ機嫌が直る。ベビーカーに座るのが嫌だといって不平を連ねているときも、トーマスのラムネを持たせてテーマソングを口ずさめば、大体素直にベビーカーに収まってしまう。こういうことは息子のときは考えられなかった。息子はどんなごまかしも効かず、徹底的に自分の意見を貫くタイプであった。
 そんなことを動物園からの帰り道、娘のベビーカーを押しながら妻が話すと、息子もニコニコしながら聴いている。「ぜんぜん泣き止まなかったんでしょ?」と上機嫌に話す様子に、心強さとさみしさを覚えて、妻とふたり、感慨にふけってしまった。

◇しかし空手にいくと、最年少らしい間違いをするので、まだまださみしさを感じなくて済む。組み手の相手がなぜか途中で入れ替わってしまうのが不思議だ。

アラザル杉森さんのバンドで、次のライブでゲスト枠でラップをする。練習中に段々欲を掻いてきて、手堅いこと意外にチャレンジしたいこともでてきてしまうのだが、手堅いと思っていたことすら全然できていないので、まずはこの課題を解決することがチャレンジになってしまう。かちっとしたタイトなラップは、しかしよく考えると一番表情つけるのが難しいやつかもしれない。

◇Ultramagnetic MC's - Poppa Large

◇ドキュメンタルも第3シーズンだが、今回、山本がものすごく不思議なポジションを築いていて感動してしまう。攻撃や防御といった構造の外に、軽々と出てしまっているのがすごい。もちろん、天然あってのことだろうし、松本の解説ツッコミがなければ笑いとしては若干わかりづらかったのだろうけれども。しかし早々と二つペナルティを食らってからここまで残るというのにも、何か底知れなさを感じてしまう。
 次回が最終回だが、とても楽しみ。でもゾンビシステムで全滅なのかな、と予想するけれども。

◇『童貞。をプロデュース』の舞台挨拶で、松江哲明監督に出演者の童貞1号役で出演した加賀賢三さんが告発をしたらしい。いつ削除されるかもわからないけれど、とりあえず現時点ではyoutubeでその様子が確認できる。
 たしか下北沢のシネマアートンだったろうか。加賀さんが出演した第一作の『童貞。をプロデュース』を観て、そのいくらか後に梅沢さんを主人公にした『童貞。をプロデュース2』も観て、それから10年前の池袋シネマロサで現在の編集版『童貞。をプロデュース』を2回観たと思う。それから当時、この作品に関するブログや記事も結構読んでいたと思う。それだけこの作品は当時の、そして今の、私に重要な問題意識を残したということである。
 その辺りは、アラザル1号目『古谷実論』と2号目『童貞論』にまとめてあって、基本的な考え方はそこに詰まっているんじゃないかと思う。再読してないのでわからないが。
 まあそれはいいとして、今回は童貞的自意識の話とかよりも、先日の一件によって、ドキュメンタリが提出する現実について思いをはせることになった。というのも、『童貞。をプロデュース』が提出した問題のなかで、当時の私は童貞考察の部分しか考えていなかったのを思い出した。これは必ずしも『童貞。をプロデュース』に限った話ではないが、『あんにょんキムチ』からずっと、松江監督は確固たるドキュメンタリ論を展開していると考えられるからである。今回の騒動は、まさにその論に基づいた作品づくりの結果でもあるからだ。
 ちなみに、私は舞台挨拶には行くつもりはなかったが、今回の上映期間中に再観賞するつもりではあった。個人的には残念だが、仕方がないことでもあるし、今後の展開に期待する方向で考えたい。

◇『童貞。をプロデュース』、および今回の一件を考えるにあたって、前提として踏まえておかなければならないことがある。森達也ドキュメンタリーは嘘をつく』の主題である。
 松江監督はデビュー作である『あんにょんキムチ』から今まで、この『ドキュ嘘』で語られるようなことを念頭に置きながら、ドキュメンタリ作品をつくり続けていると思う。
 『ドキュ嘘』が否定するのは、「フィクションとは違ってドキュメンタリは、実際に起きている現実をそのまま映すものである。だからそれは真実を映す鏡であるに違いない」という素朴で純情な認識だ。しかしそれを否定するからといって、ドキュメンタリは「嘘である」と言い切るわけでもない。そこに映った事実の一側面を浮かび上がらせるのがドキュメンタリなのであって、だからこの作品のタイトルは、「嘘をつく」に留まる。つまり嘘は悪ではない。嘘はどうしても映り込むだろうし、あるいは積極的に嘘を投入していくことで事実を浮かび上がらせることもできるのである。

◇その意味でいえば、ドキュメンタリはフィクションのいちジャンルであると考えることも可能だろう。ただ、ドキュメンタリの場合は、作品を構成する素材が現実に存在しているものである。私たちが生活を営むこの世界と地続きのものである。まさにそれが、今回のような一件を引き起こしやすくなる要因ではある。

◇いくらドキュメンタリといえども、作品として、つまり一個の完結した世界を作る以上は、それは作品内世界に閉じる。そこで描かれる世界にアクセスするためには、観賞という手段しかない。制作者であれ、出演者であれ、ひとつの作品がすでに出来上がった以上は、全ての人間は観賞という形でしか作品の世界に接触することはできない。もちろん、ドキュメンタリの場合はその作品に登場する人物も、扱われる事件も実在するし、だからそれら作品の構成素材自体に直接接触することはできるはずだ。しかし、結果的に作品に描かれる世界には、その作品の「鑑賞」なくしては触れることができない。フィクションのいちジャンルであるというのはそういう意味だ。
 だから「観賞」は、当事者としてその作品の世界に飛び込む行為となる。観賞という行為を介すことによって、作品に描かれる世界は「現実」となる。作り話である小説に心打たれるのは、それが現実として鑑賞者に迫るからだ。
 基本的に観賞は、安全圏から他人事のように眺めるということではない。鑑賞者は常に集中力を持って当事者性を持つ努力を強いられるし、あるいは他人事として鑑賞されることを想定して作られる作品は、一般的に駄作とされる。

◇『童貞。をプロデュース』は、加賀氏が糾弾するあのシーンも、前編最後の突き刺さるようにまっすぐカメラを見つめる女の子の目線も、後編の梅ちゃんのスクラップ制作過程も、監督した映像作品も、あらゆる場面に痛みが満ちていた。。鑑賞者はまさに当事者としてこれらの出来事を体験することになる。
 作品の力のみによって鑑賞者に当事者性を持たせることができるという意味で、これは優れたドキュメンタリだったと思う。そしてもちろん、それは優れたフィクションであることをも意味している。しかし当然のことながら、観賞という行為を介さない限りアクセスできない現実であり、ビデオカメラなくしては立ち上がらない現実である。だから、松江哲明のビデオカメラがないまま、この作品内で起きた出来事を眺めたら、それは『童貞。をプロデュース』に描かれた世界を作らないし、また別種の現実が起きているはずだ。
 松江監督のビデオカメラなしで、同じ出来事を目撃・体験したのが、加賀賢三氏であるのは言うまでもない。

◇今回の舞台挨拶上の告発は、『童貞。をプロデュース』という「作品が提出する現実」と「加賀賢三の現実」が激しく衝突した例となった。

◇ここで重要なのは、これが作品上映後の舞台挨拶という極めてあいまいな場で行われたことだった。その場に居合わせる人はおそらく、作品の延長線上の人物として彼らを捉えることになるだろう。ドキュメンタリはフィクションではあるが、私たちが暮らすこの世界のうえに「別の世界」を作りあげる類のフィクションだからだ。しかし、フィクションの宿命である「作品の提示する世界には、観賞以外にアクセスする手段はない」に則て考えるならば、舞台挨拶の場で起きることは、作品のある位相とはズレた、また別の現実である。上映後の舞台にドキュメンタリの出演者があがるということ自体、こうした極めてあいまいな場を用意する。
 加賀さんとのやり取りのなかで、松江監督が放った「俺は今この場ではそういう話はしない」という発言は、観賞以外の方法で、作品の外から『童貞。をプロデュース』の世界に触れることへの拒否だったのだと思う。それは作家としては当然の態度だろう。

◇その視点に則るならば、実際に強要があったか否か、実際に傷ついた人がいるのか否か、というのは確かに作品とは無関係の話になる。ただ、とはいえ松江監督や加賀さんの人間関係や社会生活上の問題としては、それは大問題であり、監督としてではなく、人間としてどうこの問題に接するのかという問題は突きつけられて然るべきだろう。
 つまり「加賀賢三の現実」と「童貞。をプロデュースの現実」の勝負にはなり得ない。「加賀賢三の現実」が、事実としてどうだったのかを重視するならば、それは「松江哲明の現実」と「加賀賢三の現実」の戦いに過ぎない。そちらの方は事実の検証なり法廷闘争なりで戦うことになるだろうが、加賀さんがもしも「童貞。をプロデュースの現実」と戦うのならば、加賀さんはなんらかの形で作品を作らなければならないのである。
 そしてそう考えると、舞台挨拶上で引き起こされたあの一連の騒動そのものが、「加賀さんが作品として提出した現実」なのではないか、と思えてくる。つまり、上映後の余韻が残る状態――童貞1号という役がうっすらまとわりついている状態から、それとはまったく違う現実を提示して見せることに、あの場に居合わせた人はまずショックを受けるだろう。ただ、そのショックは、『童貞。をプロデュース』という映像作品の強さの証明でもあることは考えておかなければいけない。

◇ところで、この話と直接関係ないところで個人的に気になるのは、上映後の舞台挨拶というのは作品の延長線上にあるだろうか、ということ。上に述べたように、もちろん原理的には延長でもなんでもなく、別モノではある。そうではなく、感覚的に、延長線上に感じるような実感が、いま、どれだけの人に共有されるだろうか、ということ。
 言い換えれば、これは松江監督があの物語をどこまでリアルガチだと思わせたかったのかという話だし、『童貞。をプロデュース』がなぜドキュメンタリとして制作されなければならなかったのかという話でもある。おそらくは、ドキュメンタリの文法を駆使するのに長けているから、というのが実制作上の理由だろう。その手法を徹底的に駆使することでしか立ち上がらない世界ではある、たしかに。ただ、私が気になるのはむしろ、ドキュメンタリの手法を用いることで、あの作品がこれだけのプロップスを集めたという、その現象が気になるのである。
 そしてこれはなんとなくなのだが、おそらくSNS的な感性と無関係ではないと思う。『童貞。をプロデュース』制作時期に照らせば、web2.0とか言った方がいいんだろうけれども。
 つまり、当事者意識の話だ。

日本のヒップホップ・アルバム・ベスト30(選・安東三/2017年版)

ミュージックマガジン6月号『日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100』に参加。同時にgogonyanta氏の『リスナーが選ぶ日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100』にも参加。ともにベスト30を選んで、同じランキングを提出した。
 ミュージックマガジンの方では25位いとうせいこう『MESS/AGE』、38位LowPass『Mirrorz』、47位スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』についてのレビューを、gogonyanta氏の企画の方ではベスト100にランクインした作品についてはすべてコメントしてある。
 個人のブログの方では、自分が選んだ30作品とそれに対する全コメントをメモしておく。一応、ミュージックマガジンのやつとは別の原稿になってます。


◇日本のヒップホップ・アルバム・ベスト30。2017年:安東三提出バージョン。


1.ALPHABETS『なれのはてな
なれのはてな
日本語ラップがすごいことになった!」と思ったら、すごいのはアルファベッツで、その後のヒップホップアーティストへの影響がちょっとよくわからない。しかしとはいえ、この路線を突然変異と捉えてしまうのはやっぱりもったいなくて、ここからの枝葉はまだどんどん伸びていく余地があるんじゃないか。そんなことを期待したくなる名盤。


2.スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』
WILD FANCY ALLIANCE
宮台真治『終わりなき日常を生きろ』は95年だけれども、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件よりも前の段階で「終わりなき日常」を主張したのはこのアルバムだった。というのは後付けだけれども、でも実際そうとしか思えない。そこにはある種の覚悟としての「まったり」があるわけで、『彼方からの手紙』にはその決意に至るまでの道程が読み取れる。「川」が何を指しているのかを考えてみれば、彼らの論理と倫理が明確になるだろう。ちなみに、サンプリング元ネタのジョージ・ベンソン『ブリージン』は、中原昌也の小説『誰が見ても人でなし』にも使用さえていて、そういえばこの短編を収めている書籍タイトルは『ニートピア2010』だったこともメモしておく。


3.GEISHA GIRLS『THE GEISHA GIRLS SHOW ~炎のおっさんアワー~』
THE GEISHA GIRLS SHOW ― 炎のおっさんアワー
ゲイシャガールズなんか入れんな!と怒られてもいいからランキングに入れたかった。松本人志がラップをやろうと思った理由とかは色々調べているけれど、いずれにせよ日本のテレビ芸能とヒップホップが早い段階で結びついた例のひとつなのは間違いない。そしてまた、ゲイシャガールズは「逆輸入アーティストとしての日本語ラッパー」を提示していたと思う。逆輸入的な日本「人」ラッパーとしてはShing02からKOJOEまでの系譜があるけれど、やっぱり彼らは英語でラップすることで向こうのプロップスを集めてきたラッパーだったと思う。また同様に、DJやトラックメイカーなどの日本人ヒップホップアーティストもアメリカで評価されてきた流れはあった。そう考えると、日本語でなされた日本「語」ラップだけがやっぱり言語の壁を越えられずにいたとも思うのだけれども、これはご存知の通りKOHHがついに突破した。日本のヒップホップの歴史として、フェイクが先行してリアルが追い付くというケースは多いけれど、まさにそれに当てはまる例がGEISHA GIRLSからKOHHという流れだったんじゃないだろうか。


4.NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDNITRO MICROPHONE UNDERGROUND
NITRO MICROPHONE UNDERGROUND[Def Jam edition]
完成度と革新性を兼ね備え、それでいてフォロワーも生んで新しい潮流を作った最強のアルバム。アルバム単体の革新性はもちろんのこと、やっぱりDEF JAM JAPANとかRIKOといった名前も思い出されて、そういうヒップホップのディストリビューターまでよく見える「産業としてのヒップホップ」も面白かった。ヒップホップにそれほどのめり込んでるわけでもなかった私でも、町田のTAHARAで大々的にDEF JAM JAPANとニトロのパネルを見たときは感動した(記憶違いだったらすんません)。


5.SEEDA『花と雨』
花と雨
6位のPSGと本当に迷ったけど、ここはBACHLOGICとSEEDAの奇跡的な仕事が刻まれたという意味で、こちらを少し上にランキングした。とはいっても、また選ぶ時期が変わればどっちが上になるかわからない。


6.PSG『DAVID』
David
PUNPEEとBACHLOGICは、日本のヒップホップの流れを一気に変えたプロデューサーだったと思う。『花と雨』がSEEDAに文学的な拡がりを与えた作品だったとしたら、『DAVID』はどこまでも映像的な音だったと思う。ちょっと感覚的な言い方だけど、でもghettohollywoodの超名作ビデオの出来を見ても、やっぱりそうなのかなという気がしてくる。


7.BUDDHA BRAND『病める無限のブッダの世界 〜BEST OF THE BEST(金字塔)〜』
病める無限のブッダの世界 ― BEST OF THE BEST (金字塔)
まあこれは普通に、どう考えても選ばないわけにはいかない。日本語ラップが目指したひとつの頂点を極めてしまった。スタッテン島のシャオリン使いたちと同じ水準でやってのけたのがブッダブランドだったんだろうなあと思う。


8.LowPass『Mirrorz』
Mirrorz
凝ったトラックの上でめちゃくちゃうまいラップが展開するだけでもすごいけれど、そのリリックが言葉遊びに終始してることに感動する。言葉遊び系とはいっても、やっぱり日本語ラップ黎明期のそれとは大きく違っていて、一番違うのは支離滅裂な展開の仕方。全体を通してのコンセプトが見えない。これには書き言葉の言葉遊びと話し言葉の言葉遊びの違いというのがあるんじゃないかと思う。


9.ZEN-LA-ROCK『LA PHARAOH MAGIC』
LA PHARAOH MAGIC
いまだにヒップホップの黒歴史的な扱いを受けることさえあるニュージャックスウィングだけれども、このアルバムを聞けば聞くほど、まだこちらの道へと延びていくヒップホップの豊かな可能性に気づかされる。テディーライリーという分岐点から、ファレルにいくのか、ZEN-LA-ROCKにいくのか。まだまだわからない。


10.SCARS『THE ALBUM』
ジ・アルバム
ハスラーの世界を日本語で歌う。その強烈なインパクトもさることながら、マイクリレーの巧みさにも目を見張る。ある意味では実録ニトロだったと言ってもいいかもしれない。


11.いとうせいこう『MESS/AGE』
Mess / Age
完全に書き言葉的なコンセプトと展開がぴったり一致した言葉遊びではある。ラップ=メッセージをどのように崩すのか。みうらじゅんアイデン&ティティ』よろしく「不幸なことに、ぼくらには不幸なことがなかった」の問題に、日本語ラップとして初めて答えを出したのがこのアルバムだったのではないか。ちなみに、この次にその問題に回答を出した作品はスチャダラパー『彼方からの手紙』だと思う。


12.キミドリ『キミドリ』
キミドリ
インディペンデントカルチャーは雑多な未発達の文化の混交・交流を促すけれど、日本のヒップホップにおいて、その様子が色濃く投影された作品がこれだと思う。ラップスタイルも「ストリートっぽい」と形容すればいいのか、ぶっきらぼうな感じがむちゃくちゃパンク。


13.AUDIO SPORTS『Era Of Glittering Gas』
ERA OF GLITTERRING GAS
ヒップホップが明確にジャンルとして線引きされる前、可能性としてのヒップホップに挑んだ作品。普通にめちゃくちゃかっこいい。


14.m-flo『ASTROMANTIC』
ASTROMANTIC(CCCD)
ヒップホップは成り立ちから見ても、ボトムアップで切磋琢磨するカルチャーだと思われている。でも、これだけ大きな産業には、お金も人もふんだんにリソースを割いて、トップの人たちだけで構成されている側面も当然あるわけで、m-floは確実に日本でそれを担っている。(細野晴臣でなく)坂本龍一にラップさせたこのアルバムは、m-floの路線を確固たるものにした。ように見える。


15.YOU THE ROCK★『THE★GRAFFITI ROCK ‘98』
THE☆GRAFFITIROCK’98(CCCD)
アルバム一枚でヒップホップの歴史を辿ってみせるという、一種の離れ業だと思う。ユウザロックのラップの魅力も全開で「全身でラップする」という表現がぴったり。


16.ECD『The Bridge 明日に架ける橋』
The Bridge-明日に架ける橋
正直に白状すると、ラッパーECDを本当にすごいと思ったのはこのアルバムからだった。つい最近です。流行りのビートもしっかり咀嚼したうえで、自分のラップを乗せる真摯な姿に胸を打たれる。あと、これは今後、ラッパーの高齢化問題に取り組んだ最初期の作品になるのではないだろうか。


17.SHAKKAZOMBIE『HERO THE S.Z.』
HERO THE S.Z.
実は入口は『カウボーイビバップ』だった。「日本語ラップはダサい」という偏見しかなかった中学生が素直に聞き入ってしまった曲が『空を取り戻した日』。まあこれは個人的な経験だけれども、とはいえ、そういうジャンル・メディア横断的なことができる拡がりを持った名作なのはひとつ。


18.LUNCH TIME SPEAX『B:COMPOSE』
B:COMPOSE
MVでTAD’SがTシャツをパンツインしてラップしてる様子がむちゃくちゃかっこよかった。GOCCIの男ウケ間違いなしのラップがむちゃくちゃかっこよかった。メロコアもヒップホップもストリートのことを言うけれど、それが同じものを指していることを知ったアルバム。


19.SOUL SCREAM『The positive gravity~案とヒント~』
The positive gravity?案とヒント?
はじめて買った日本語ラップのアルバムだった。日本語でどのようなフロウを完成させるかが日本語ラッパーの宿命だった時代に、一番魅力的なものを提出したグループだと思っている。


20.THA BLUE HERB『STILLING STILL DREAMING』
STILLING STILL DREAMING
対東京、対渋谷を打ち出した功績が大きいのはもちろんだが、単純にものすごいスピーチが聴けるという意味で抜群の存在感。演説とラップはつくづく同じものなんだと思う。


21.TWIGY『SEVEN DIMENSIONS』
セヴン・ディメンションズ
単純に、ツィギーの魅力が一番詰まったアルバムなんじゃないかと思う。多種多様なフロウを緩急自在に使いこなすキレッキレのツィギーが聴ける。あと客演してるマッカチンがむちゃくちゃかっこいい。


22.KAKATO『KARA OK』
kakato-kara-ok.tumblr.com
フリースタイルがすごすぎるふたりの即興的快楽を、カラオケという密室空間で見事に表現。J-pop的記憶の使い方もさることながら、普通に良質なポップスにしてしまってるのもすさまじい。


23.MACKA-CHIN『CHIN NEAR HERE』
CHIN NEAR HERE(通常盤)(CCCD)
マッカチンは明らかに時代を作ったアーティストだと思う。PSGを初めて聞いたときの衝撃にデジャヴがあったんだけど、それは絶対この作品だったと思う。サンプリングの仕方も、ラップの主題の選び方もなんか変で、自身はものすごくハキハキラップする。ニトロのファーストの後にこうした展開を用意できるところに、音楽的厚みを感じる。


24.THREE ONE LENGTH『THREE ONE LENGTH』
THREE ONE LENGTH
思わず「エバーグリーンな名作」とか言いたくなるくらい、一瞬と永遠が同義であることを認識させられる。いつ聴いても、このアルバムを聴くときは、いつも同じ自分になってしまう。


25.DELI『DELTA EXPRESS LIKE ILLUSION』
DELTA EXPRESS LIKE ILLUSION(CCCD)
ニトロ以後、ニトロ的世界観をもっとも展開していったのがDELIだったんじゃないかと思う。なんというか、ソロ作品なのに客演ぽいというか、その辺がとても冷静。客演というヒップホップにおける重要な要素を考えるために、これからも何度も聞き返されるべき作品。


26.Dragon AshViva La Revolution
Viva La Revolution
これはやっぱり、ロックミュージシャンのアルバムではなくて、ヒップホップとして数えられるべきアルバムだったんじゃないか。日本版『walk this way』だと思ってる。


27.SIMI LAB『Page1:ANATOMY OF INSANE』
Page1:ANATOMY OF INSANE
ファーストだけれども、OMSBとQNが同時在籍していた時期の最後のアルバム。とか考えてしまう。それはともかくとして。日本語ラップは日本語を分解してまた組み直す作業なわけで、微妙な言い方になるけど、おそらくシミラボは組み直す際の手つきに独特なものを持っている。


28.NORIKIYO『OUTLET BLUES』
OUTLET BLUES
孤独であることのなかには、さみしさとは真逆の、一種の円満な、幸福に閉鎖された世界もある。多くのラッパーからそういうことを学ぶけれども、NORIKIYOがリリックで描く街は、そういった幸福な閉塞をもたらす存在のように聞こえることがある。


29.KOHH『YELLOW T△PE』
YELLOW T△PE
まるでL.A.かと思うような『we good』のMVを観たとき、日本語ラップが完成したと思った。ミックステープが出るというのですぐさま買って、『僕といっしょ』からのサンプリングや『family』を聴いた。完璧な日本語ラッパーが現れたと思った。


30.Moe and ghosts『幽霊たち』
幽霊たち
ゴーストコースト(彼岸)というアイデアは□□□『お化け次元』でも提示されていたけれど、それをガチでやってしまったのは間違いない。ラップは話し言葉に漸近するものであり、そこにラッパー自身が見えてくるのだと思っていた。しかしMoeがやってのけたのは、どこまでも「話し言葉に近づかないままのラップ」であり、要するに歌声のままラップするということ。このコンセプトを突き詰めた先にはテクニック派に向かうしかないようにも見えるけれども、もしもそれとは違う道が見えたら、ラップが、ヒップホップが変わる。


以下より抜粋
2017-05-25 - 日々:文音体触 〜compose&contact〜

午後2時半。連弾兄妹。

◇息子のピアノのテキストには、鍵盤の上に2本足で立った動物たちのイラストがあしらわれている。それを見た娘が、ピアノを足で弾こうとする。

◇もう少しで1歳半になる娘は、人の真似が楽しくてしょうがない。特に両親よりも年の近い兄の方を真似したがる。息子が鍵盤に触れると、すぐに妹もそこに寄ってきて短い腕を必死に伸ばす。息子はそのことを練習しない理由にしたいのだが、言い方が悪かったために妻に叱られた。泣いて隣室の布団にダイブしにいくと、妹も兄を追いかけ、大喜びで布団にダイブした。

◇娘はもう言葉自体は大分わかっていて、発音はまだできなくても、こちらとのコミュニケーションは大分スムーズ。発音も「うん」という軽い同意程度なら可能だし、このあいだは語尾だけ「ねー」と同調することを覚えていた。

◇5月は『バンコクナイツ』と、そこに至る空族サーガをいくつか観た。ゴーギャンの『私たちはどこからきたのか、何ものなのか、どこへ行くのか』の映画化だと思って問題ないと思う。サウダーヂで田我流が演じた極右ラッパーも、国道20号線に出てくるやつらも、どこにいようとみんな「異邦人」だった。
 しかしそれにしても、バンコクナイツの音楽の良さには参った。エムレコードから出ているLPを思わずいくつか買ってしまった。ミュージカル映画とまでは言わないけれど、音楽と映像が依存し合う関係で結びついている。

アラザル同人の杉森さんに誘われて、スタジオでセッションしてきた。スタジオに入ったのはおそらく10年ぶりくらいだと思う。もちろんジャズセッションの経験もないし、フリースタイルもまだまだ続かない。なので、とりあえずいくらかリリックを書いて参加。おっかなびっくりだけれども、基本的なセッションのフォームも教わりつつ、めちゃくちゃ楽しい時間を過ごした。みんな演奏うまい。

是枝裕和『海街ダイアリー』。
 親に捨てられた子供たちの生活を描くという意味では、『誰も知らない』の美人姉妹バージョンと考えていい。『誰も知らない』にも植物を育てるという日常の所作によって、兄弟たちの日常を肯定する素晴らしいシーンがあるけれども、『海街ダイアリー』はそれをさらに広げていて、限りなくやさしい映画だった。
 やさしさには、常に覚悟と決意が伴う。覚悟や決意なく人にやさしくすることは甘やかしであり、同時に自分自身への甘えでもある。海街ダイアリーが映すのはまさに甘えとは異なるやさしさで、それはおそらく人に期待することの残酷さも、人に受け入れられることの厳しさも、充分理解した上に表れる態度であるように見えた。

◇WAR『Why Can't We Be Friend?』

「I seen you walkin' down in Chinatown. I called you but you could not look around. Why can't we be friends?」

ミュージックマガジン6月号『日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100』に参加。同時にgogonyanta氏の『リスナーが選ぶ日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100』にも参加。ともにベスト30を選んで、同じランキングを提出した。
 ミュージックマガジンの方では25位いとうせいこう『MESS/AGE』、38位LowPass『Mirrorz』、47位スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』についてのレビューを、gogonyanta氏の企画の方ではベスト100にランクインした作品についてはすべてコメントしてある。
 個人のブログの方では、自分が選んだ30作品とそれに対する全コメントをメモしておく。一応、ミュージックマガジンのやつとは別の原稿になってます。

日本のヒップホップ・アルバム・ベスト30。2017年:安東三提出バージョン。


1.ALPHABETS『なれのはてな
日本語ラップがすごいことになった!」と思ったら、すごいのはアルファベッツで、その後のヒップホップアーティストへの影響がちょっとよくわからない。しかしとはいえ、この路線を突然変異と捉えてしまうのはやっぱりもったいなくて、ここからの枝葉はまだどんどん伸びていく余地があるんじゃないか。そんなことを期待したくなる名盤。


2.スチャダラパー『WILD FANCY ALLIANCE』
宮台真治『終わりなき日常を生きろ』は95年だけれども、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件よりも前の段階で「終わりなき日常」を主張したのはこのアルバムだった。というのは後付けだけれども、でも実際そうとしか思えない。そこにはある種の覚悟としての「まったり」があるわけで、『彼方からの手紙』にはその決意に至るまでの道程が読み取れる。「川」が何を指しているのかを考えてみれば、彼らの論理と倫理が明確になるだろう。ちなみに、サンプリング元ネタのジョージ・ベンソン『ブリージン』は、中原昌也の小説『誰が見ても人でなし』にも使用さえていて、そういえばこの短編を収めている書籍タイトルは『ニートピア2010』だったこともメモしておく。


3.GEISHA GIRLS『THE GEISHA GIRLS SHOW 〜炎のおっさんアワー〜』
ゲイシャガールズなんか入れんな!と怒られてもいいからランキングに入れたかった。松本人志がラップをやろうと思った理由とかは色々調べているけれど、いずれにせよ日本のテレビ芸能とヒップホップが早い段階で結びついた例のひとつなのは間違いない。そしてまた、ゲイシャガールズは「逆輸入アーティストとしての日本語ラッパー」を提示していたと思う。逆輸入的な日本「人」ラッパーとしてはShing02からKOJOEまでの系譜があるけれど、やっぱり彼らは英語でラップすることで向こうのプロップスを集めてきたラッパーだったと思う。また同様に、DJやトラックメイカーなどの日本人ヒップホップアーティストもアメリカで評価されてきた流れはあった。そう考えると、日本語でなされた日本「語」ラップだけがやっぱり言語の壁を越えられずにいたとも思うのだけれども、これはご存知の通りKOHHがついに突破した。日本のヒップホップの歴史として、フェイクが先行してリアルが追い付くというケースは多いけれど、まさにそれに当てはまる例がGEISHA GIRLSからKOHHという流れだったんじゃないだろうか。


4.NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDNITRO MICROPHONE UNDERGROUND
完成度と革新性を兼ね備え、それでいてフォロワーも生んで新しい潮流を作った最強のアルバム。アルバム単体の革新性はもちろんのこと、やっぱりDEF JAM JAPANとかRIKOといった名前も思い出されて、そういうヒップホップのディストリビューターまでよく見える「産業としてのヒップホップ」も面白かった。ヒップホップにそれほどのめり込んでるわけでもなかった私でも、町田のTAHARAで大々的にDEF JAM JAPANとニトロのパネルを見たときは感動した(記憶違いだったらすんません)。


5.SEEDA『花と雨』
6位のPSGと本当に迷ったけど、ここはBACHLOGICSEEDAの奇跡的な仕事が刻まれたという意味で、こちらを少し上にランキングした。とはいっても、また選ぶ時期が変わればどっちが上になるかわからない。


6.PSG『DAVID』
PUNPEEBACHLOGICは、日本のヒップホップの流れを一気に変えたプロデューサーだったと思う。『花と雨』がSEEDAに文学的な拡がりを与えた作品だったとしたら、『DAVID』はどこまでも映像的な音だったと思う。ちょっと感覚的な言い方だけど、でもghettohollywoodの超名作ビデオの出来を見ても、やっぱりそうなのかなという気がしてくる。


7.BUDDHA BRAND『病める無限のブッダの世界 〜BEST OF THE BEST(金字塔)〜』
まあこれは普通に、どう考えても選ばないわけにはいかない。日本語ラップが目指したひとつの頂点を極めてしまった。スタッテン島のシャオリン使いたちと同じ水準でやってのけたのがブッダブランドだったんだろうなあと思う。


8.LowPass『Mirrorz』
凝ったトラックの上でめちゃくちゃうまいラップが展開するだけでもすごいけれど、そのリリックが言葉遊びに終始してることに感動する。言葉遊び系とはいっても、やっぱり日本語ラップ黎明期のそれとは大きく違っていて、一番違うのは支離滅裂な展開の仕方。全体を通してのコンセプトが見えない。これには書き言葉の言葉遊びと話し言葉の言葉遊びの違いというのがあるんじゃないかと思う。


9.ZEN-LA-ROCK『LA PHARAOH MAGIC』
いまだにヒップホップの黒歴史的な扱いを受けることさえあるニュージャックスウィングだけれども、このアルバムを聞けば聞くほど、まだこちらの道へと延びていくヒップホップの豊かな可能性に気づかされる。テディーライリーという分岐点から、ファレルにいくのか、ZEN-LA-ROCKにいくのか。まだまだわからない。


10.SCARS『THE ALBUM』
ハスラーの世界を日本語で歌う。その強烈なインパクトもさることながら、マイクリレーの巧みさにも目を見張る。ある意味では実録ニトロだったと言ってもいいかもしれない。


11.いとうせいこう『MESS/AGE』
完全に書き言葉的な、コンセプトと展開がぴったり一致した言葉遊びではある。ラップ=メッセージをどのように崩すのか。みうらじゅんアイデン&ティティ』よろしく「不幸なことに、ぼくらには不幸なことがなかった」の問題に、日本語ラップとして初めて答えを出したのがこのアルバムだったのではないか。ちなみに、この次にその問題に回答を出した作品はスチャダラパー『彼方からの手紙』だと思う。


12.キミドリ『キミドリ』
インディペンデントカルチャーは雑多な未発達の文化の混交・交流を促すけれど、日本のヒップホップにおいて、その様子が色濃く投影された作品がこれだと思う。ラップスタイルも「ストリートっぽい」と形容すればいいのか、ぶっきらぼうな感じがむちゃくちゃパンク。


13.AUDIO SPORTS『Era Of Glittering Gas』
ヒップホップが明確にジャンルとして線引きされる前、可能性としてのヒップホップに挑んだ作品。普通にめちゃくちゃかっこいい。


14.m-flo『ASTROMANTIC』
ヒップホップは成り立ちから見ても、ボトムアップで切磋琢磨するカルチャーだと思われている。でも、これだけ大きな産業には、お金も人もふんだんにリソースを割いて、トップの人たちだけで構成されている側面も当然あるわけで、m-floは確実に日本でそれを担っている。(細野晴臣でなく)坂本龍一にラップさせたこのアルバムは、m-floの路線を確固たるものにした。ように見える。


15.YOU THE ROCK★『THE★GRAFFITI ROCK ‘98』
アルバム一枚でヒップホップの歴史を辿ってみせるという、一種の離れ業だと思う。ユウザロックのラップの魅力も全開で「全身でラップする」という表現がぴったり。


16.ECD『The Bridge 明日に架ける橋』
正直に白状すると、ラッパーECDを本当にすごいと思ったのはこのアルバムからだった。つい最近です。流行りのビートもしっかり咀嚼したうえで、自分のラップを乗せる真摯な姿に胸を打たれる。あと、これは今後、ラッパーの高齢化問題に取り組んだ最初期の作品になるのではないだろうか。


17.SHAKKAZOMBIE『HERO THE S.Z.』
実は入口は『カウボーイビバップ』だった。「日本語ラップはダサい」という偏見しかなかった中学生が素直に聞き入ってしまった曲が『空を取り戻した日』。まあこれは個人的な経験だけれども、とはいえ、そういうジャンル・メディア横断的なことができる拡がりを持った名作なのはひとつ。


18.LUNCH TIME SPEAX『B:COMPOSE』
MVでTAD’SがTシャツをパンツインしてラップしてる様子がむちゃくちゃかっこよかった。GOCCIの男ウケ間違いなしのラップがむちゃくちゃかっこよかった。メロコアもヒップホップもストリートのことを言うけれど、それが同じものを指していることを知ったアルバム。


19.SOUL SCREAM『The positive gravity〜案とヒント〜』
はじめて買った日本語ラップのアルバムだった。日本語でどのようなフロウを完成させるかが日本語ラッパーの宿命だった時代に、一番魅力的なものを提出したグループだと思っている。


20.THA BLUE HERB『STILLING STILL DREAMING』
対東京、対渋谷を打ち出した功績が大きいのはもちろんだが、単純にものすごいスピーチが聴けるという意味で抜群の存在感。演説とラップはつくづく同じものなんだと思う。


21.TWIGY『SEVEN DIMENSIONS』
単純に、ツィギーの魅力が一番詰まったアルバムなんじゃないかと思う。多種多様なフロウを緩急自在に使いこなすキレッキレのツィギーが聴ける。あと客演してるマッカチンがむちゃくちゃかっこいい。


22.KAKATO『KARA OK』
フリースタイルがすごすぎるふたりの即興的快楽を、カラオケという密室空間で見事に表現。J-pop的記憶の使い方もさることながら、普通に良質なポップスにしてしまってるのもすさまじい。


23.MACKA-CHIN『CHIN NEAR HERE』
マッカチンは明らかに時代を作ったアーティストだと思う。PSGを初めて聞いたときの衝撃にデジャヴがあったんだけど、絶対この作品を思い浮かべてたと思う。サンプリングの仕方も、ラップの主題の選び方もなんか変。マッカチン自身のものすごくハキハキラップする姿にも惹かれた。ニトロのファーストの後にこうした展開を用意できるところに、音楽的厚みを感じる。


24.THREE ONE LENGTH『THREE ONE LENGTH』
思わず「エバーグリーンな名作」とか言いたくなるくらい、一瞬と永遠が同義であることを認識させられる。いつ聴いても、このアルバムを聴くときは、いつも同じ自分になってしまう。


25.DELI『DELTA EXPRESS LIKE ILLUSION』
ニトロ以後、ニトロ的世界観をもっとも展開していったのがDELIだったんじゃないかと思う。なんというか、自身のソロ作品なのに客演ぽいというか、その辺がとても冷静。客演というヒップホップにおける重要な要素を考えるために、これからも何度も聞き返されるべき作品。


26.Dragon AshViva La Revolution
これはやっぱり、ロックミュージシャンのアルバムではなくて、ヒップホップとして数えられるべきアルバムだったんじゃないか。日本版『walk this way』だと思ってる。


27.SIMI LAB『Page1:ANATOMY OF INSANE』
ファーストだけれども、OMSBとQNが同時在籍していた時期の最後のアルバム。とか考えてしまう。それはともかくとして。日本語ラップは日本語を分解してまた組み直す作業なわけで、微妙な言い方になるけど、おそらくシミラボは組み直す際の手つきに独特なものを持っている。


28.NORIKIYO『OUTLET BLUES』
孤独であることのなかには、さみしさとは真逆の、一種の円満な、幸福に閉鎖された世界もある。多くのラッパーからそういうことを学ぶけれども、NORIKIYOがリリックで描く街は、そういった幸福な閉塞をもたらす存在のように聞こえることがある。


29.KOHH『YELLOW T△PE』
まるでL.A.かと思うような『we good』のMVを観たとき、日本語ラップが完成したと思った。ミックステープが出るというのですぐさま買って、『僕といっしょ』からのサンプリングや『family』を聴いた。完璧な日本語ラッパーが現れたと思った。


30.Moe and ghosts『幽霊たち』
ゴーストコースト(彼岸)というアイデアは□□□『お化け次元』でも提示されていたけれど、それをガチでやってしまったのは間違いない。ラップは話し言葉に漸近するものであり、そこにラッパー自身が見えてくるのだと思っていた。しかしMoeがやってのけたのは、どこまでも「話し言葉に近づかないままのラップ」であり、要するに歌声のままラップするということ。このコンセプトを突き詰めた先にはテクニック派に向かうしかないようにも見えるけれども、もしもそれとは違う道が見えたら、ラップが、ヒップホップが変わる。

2016年日本語ラップベスト

◇昨年は諸事情から辞退させていただいたmiseさんのところの日本語ラップ年間ベスト。2016年は参加させていただいた。

◇『2016 BEST act In 日本語ラップ(Selected by 安東三)』→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52253560.html
 “国民的歌手”宇多田ヒカルにKOHHがフックアップされた2016年。KOHHをどうにかして言語化しようとする日本語ラップ批評(?)よりも先に、一気にど真ん中に突き抜けてしまった感すらある。KOHHの客演はフックアップであるだけでなく、ある種の逆輸入アーティストとしての側面も持ち合わせていて、「KOHHはゲイシャガールズのリアルなやつ」と言い換えてもいい。
 フリースタイルダンジョンの成功も含めて、日本のテレビ芸能的な位置づけを考えてみる必要性が一気に高まったのが、2016年の日本語ラップシーンだった。

◇『2016 BEST ALBUMs In 日本語ラップ(Selected by 安東三)』→http://blog.livedoor.jp/colvics/archives/52253562.html
 2016年は、言ってしまえばKOHH不在の年であり、ポストトラップの年でもある。いや、全然KOHHは居たし、トラップの猛威は相変わらずだったわけだけど。
 長らく、日本語ラップは逡巡をテーマにしていた。人種差別や貧富の差を歌うことの逡巡、ギャングでないことの逡巡、あるいは自意識の逡巡、そしてヒップホップをすることの逡巡。それらは音楽の上で、リリックの上で、はたまたファッションや姿勢や立ち居振る舞いの上で、直接的あるいは間接的にヒップホップに反映されていた。
 そういった逡巡が生み出す「アイデンティティの揺らぎ」によって、USヒップホップの内包する「アイデンティティの揺らぎ」と響き合う構造を持っていたようにも思う。
 しかし、もはやそうした二重に捻じれたアイデンティティの揺らぎはもはや必要なくなってきたのが、2000年代以降の日本語ラップが歩んできた道だったのかもしれない。
 KOHHはそうした世代の頂点だったと思うし、それは世界的にも共通した動きだった。よって、ワールドワイドにバズったりもしたのだろう。
 2016年は、逡巡なき日本語ラップがいよいよ極まるなかで、あらためて90年代からの日本語ラップとの再接続が試みられるような、そんな動きが見えた気がした。

◇気づけば、今回の10作品は、概ね上位3作品のいずれかの方向に分類されるように選んでいた。
 3位の『田中面サウンドトラック』は、一時期までのサンクラ/ディジタルディガー層を一気に取り込むと同時に、単純に「いい音楽ファン」にもリーチし、おそらく今後のコミュニティミュージックの在り方をいち早く提示していた。もちろんそうした一連の動きは田中面舞踏会の第一回から形になっていたわけだけど、音源として1枚に収めたという意味で、そしてそれがどんな方面にも目配せしているという意味で、極めて音楽的にコンセプトを達成したんじゃないかと思う。
 2位のKANDYTOWNは、どう考えても2016年のニューヒーロー。90年代信仰のうるさ型ヒップホップヘッズを音楽的にもレトリック的にも黙らせる日本語ラップの「正統派」感も出しつつ、サグなギャングもいいとこの子もUSもJPもラップすりゃみんな平等的な価値観で、リアルとかフェイクとかを端から問題にしない。“my house is a your home”のラインのやさしさに泣きそうになってしまったりしながら、「みんなで広げるホーミーの輪」を本気で信じられる気がしていた。草刈正雄浜田雅功の子供たち世代がこういうことを言っているという意味でも、次のフェーズに入った感じがする。

◇ある種のバックラッシュで評価されてる部分はあるかもしれないけど、しかし昨年彼らの登場を目撃できたのは圧倒的に良いことなんじゃないかと思う。

◇パブリック娘。を1位に選んだのは2011年以来、2作連続。正直、ひいきのアーティストを1位に、しかも2回連続で選ぶというのは、選者としては結構勇気のいるセレクトだったけど、胸を張って挙げさせていただいた。
 「ぶっきらぼうに見えて器用」なラッパーの系譜はキミドリからやけのはらまで連綿と続いているわけだけど、パブリック娘。はそこに貪欲な「非」アーティスト性を盛り込もうとする。ともすれば「ナード系」とか「文化系ヒップホップ」に回収されそうなところをギリギリで避けることができているのは、たぶん「文学性」やら「音楽性」といったアーティストっぽさを上手に回避して、「社交性」を前に出しているからなんじゃないか。
 もちろん、だからといってパブリック娘。が文学性やら音楽性やらが希薄なグループだと言いたいわけではない。ただ単に、そういった文化系受けしそうな自意識の逡巡をテーマにしていない、ということである。その意味で、2位のKANDYTOWNと非常に近いところでラップをしているようにも見えるし、見えている景色も似ているのかもしれない。
 学生時代にリリースした過去作からの変化という点では、社会人になってもリリックの巧みさは相変わらずで、そしてなんと、ラップがうまくなっている! しかしうまくなっているにも関わらず初々しさがあるというか、声の出し方がいまだに全然こなれていないというのは、これは絶対に狙ってやっていることだと思う。

◇2016年は出張の機会が以前より増えたんだけど、KANDYTOWNとパブリック娘。を交互にかけながら、新幹線の窓から外を見てみたりした。



2017-01-03 - 日々:文音体触 〜compose&contact〜
より抜粋