web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

古谷実論の設計図ができた/貫通する批評について

◇およそ4000字(約半分)ほど、ダラダラ書いたあとにやっと設計図が出来上がり、それをもとに書き直します。とはいえ、今までの原稿から使えそうで使えなかったりしたものなども、そのダラダラで直してきたと思うので、さらに少し直せば使えるようにできるかもしれない(→http://d.hatena.ne.jp/akiraah/)。

◇徹夜明けの朝勤、バイトが延長しまくる。目の下がやっくんみたいになった。

◇レポートがたまってるときとかってチョコとコーヒーばっかで食事はとらないんだけど、今回は結構しっかり食べながらやってる。おかげで食後は頭が働かなくて、なかなか書き出すことができない。でも滝本竜彦が禿げた原因ってチョコとコーヒーばかりの食生活だったそうなので、それを知って以降出来る限り避けてる。あと5年は禿げたくない・・・。

◇ふと、スピリッツの『バンビーノ』を、共感ベースで読む人ってどんくらいいるんだろう、て疑問が浮かぶ。ドラマとしてなかなか面白いので楽しく読めるけれども、頑張っておりゃーって自己実現させていくようなストレートな話ってイマドキ珍しい気もする。てか、『バンビーノ』の社会時評って読んでみたい。多分北島康介とバンビvs石原まこちんになっていく気がするw

浅野いにおってやっぱりホントにキレイな絵描くね!!特に風景が素晴らしい。けど、だからこそ僕はあんま乗れない。あんなに美しい風景を恥ずかしげもなく描けちゃうような感覚がちょっと・・・。やっぱ僕は風景を美しく描くことに抵抗があって、ありのままを丁寧に書いていくことでそこに愛しさみたいなものがにじみ出る心性がすきだったりする。
 もちろん、単なる僕の好みですが。

◇貫通する批評についていろいろ考えて、ほんのチラッとだけ「諸星大二郎HIPHOP的ミックスセンス」wみたいなことを書こうかとも思ったんだけど、やっぱやめたw。
 なんでかって言うと、まず単純に8000字も持たない。800字くらいw?。それから、文フリに出すかもしれないものなので、そんときにもし万が一2ちゃんで叩いてくれるような機会に恵まれたとき、やっぱり僕は古谷実について語るイタイヤツっていう形で叩いてもらいたかったってことねw。あと、もうひとつ真面目(?)な理由がある。
 佐々木さんの貫通する批評っていうのは、作者もジャンルも全く無関係な複数の作品と、それを読む佐々木敦っていう批評家が三つ巴になって出来上がる批評。「もしかしたら佐々木敦のこじつけかもしれない」っていう前置きがありながら、佐々木さんが例えばある音楽の中に見出したテーマと、他の文学の中に見出したテーマが、批評の中で貫通していて、全く違うように見えていたその二つが、批評を読んだ後には同じことを言ってるようにしか見えなくなるっていうような類のもの。その完成度が「貫通する批評」の頑丈さになっていると思う。つまり、最初文章のタイトルを見て「こじつけじゃないの?」っていう疑問が浮かぶんだけど、文章を読んでるうちに解消されるっていう、そんな「こじつけ」感が段々消えていく作業に面白さを見出すんだと思う。
 だからそれが本当に正しいかどうかは、確かに問題じゃなくなる。こんな佐々木さんと同じようなことを言う人を僕はもうひとり知っていて、仏像にロリコンを見出したりするみうらじゅんが「本当のことって、つまんないんだね」って言うときってそんなことを感じたりする。・・・っていう風に、僕は今、僕の中に映った佐々木さんとみうらじゅんを貫通させたりしてるってわけっすね。

◇ウチの猫、痔になってるのかもしれない。相当いたそうに叫んでいる・・・

◇でも、僕はそれよりもむしろ、最初から最後まで「こじつけ」に見えるもの、あるいは「キミにはそう見えるんだね」って言われちゃう可能性のあるものがすきだったりする。あ、ちょっと言葉足らなかった。「多分ホントは違うだろうって思うけど、君の見方面白いよ」って言われるもの。つまりそこにあるのは「僕の見方」っていうやつで、もうそこまでいくと批評ではないと思う。
 「僕の見方」とかって言われると、自分を絶対化してるとかって言われると思うんだけど、いや、その通りだと思います。てか、だって自分って絶対的なものですよ。もちろん社会的な自分はもちろん交換可能だけれども、実存としての自分は普通に交換不可能に決まってるじゃないですか。当たり前だけど。
 社会的に絶対でありたいと思う驕った自意識を、僕は心底イヤだと思うけれども、かといって自分て交換可能なんだあって執拗に言うってのも似たようなものだと思う。そう触れ回ることで「自分なんて結局、交換可能なのさぁああ〜」(←内股ロン毛でくにゅくにゅしゃべる人のイメージ)って感じで自分に酔ってるみたいなところがあっていやだw。相対化を絶対視してるってことですな。
 なんだか話が逸れた。えっと、僕が佐々木さんの文章でホントに面白いと思ったのは、やっぱ『ソフト&ハード』の古谷実論で、これって貫通させる前の作業で終わってるような気がする。おそらくここから、自分に映った古谷実はこうだ、んで「音楽でもこういう人がいて・・・」とかって風に貫通が始まるんだけど、その前段階の部分で止めてるような気がする。
 佐々木さんの古谷実論って、視点がそのままインストールされるような類ではない。佐々木さんの古谷実論を読んだからって、その後作品を読み返しても、佐々木さんが見出したものを読みとれるかはわからない。例えば佐々木さんは古谷実論で「運命」に言及していたけれど、僕は佐々木さんのそうした見方のおかげでそういう軸も加わったけど、でも古谷実から僕は「孤独」の方を強く感じるから、そっちのことを書く。佐々木さんの批評で触れられてないところを書こうってわけじゃなくて、自分が見出した問題意識を書く。だから、普通に棲み分けもできてるだろうし、普通にかぶっていたりもすると思う。
 つまり、僕は批評(と呼べる呼べないは置いといて)を読んだときに、その批評する主体が明確に見えてるものが好きだってわけ。自分の見出したことと他の人が見出したことの間にズレは生じるものだろうし、一致するところも生じると思う。そこを僕は面白いなあと思ったりする。もちろん、そんときに「自分の方が正しい読み方をしている」とかっていうのは論外ね。

◇『DubSextet』。カッコイイけど、もっとディレイバリバリの方が好きだなあ。

◇さっきから好き嫌いしか書いてないっすねw