web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

切羽詰る身体を知ってるからメッセージが生まれる

古谷実論を面白く読めるものにするために工夫を凝らしているところ。(→http://d.hatena.ne.jp/akiraah/20080228/1204128923

◇前回つまらないと思いながらも書き切ったおかげで、今後着目すると面白そうな点が見えてきた。古谷実の表現には、「切羽詰る」ってことを身体的によく知ってるからこそ可能なものが見受けられる。

◇反対に、どこまでいっても切羽詰らないのが、『アフロ田中』。切羽詰ることを拒否してる。

◇古谷作品はあらゆることを先回りして考えていた*1。しかしそうすると、予測が外れたときには切羽詰ってしまう。それはもうめちゃくちゃ恥ずかしいことなんだけれども、実は古谷実が信じていたのは切羽詰った挙句、痙攣してしまう身体(「爆笑」)や、追い詰められて思わずこぼす本音だったのだと思う。
 『アフロ田中』は先回りそのものを諦め、本当に自意識を捨て去ろうという方向に行く。つまり達観。しかし達観の弱点は、自分以外を救えないこと。あるいは、切羽詰らないことをも選択できる状況でなきゃ達観の境地にまで辿り着けないってこと。『アフロ田中』で可能なのは、せいぜいその空気感を表現することなわけですな*2

◇このあたりって多分ポストモダンとかって話につなげちゃってもいいと思うけれども、なんかそういうこと言うと大げさになっちゃうしみっともないんだよなあ・・・。あるいは、仏教的諦念(滅私)とキリスト教的愛っていう、自我の在り方と他者への接し方の違いにもなってくると思うんだけど、もっとおおげさだよねw

*1:おそらくそれは自意識っていう側面もそうだと思うんだけれども、自意識を強くせざるをえない状況が、多分大前提として用意されている。『僕といっしょ』のすぐ起なんかは、捨て子であるっていう疎外感を、特別な自分っていう全能感に変えざるを得なかったし、先回りして考えなければ生きれなかった

*2:とはいえ、その空気を伝えることに成功している稀有な作品だと思います