web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

スタイルが生み出すメッセージ

◇bokosuさんがトラックバックで長文書いてくださいました。活発になってきましたね!・・・ってここだけかw

◇メッセージに関する冊子を作るって言って創刊の辞(仮)みたいなことを書いたんですが、僕がそこで主に書いていたのは「言いたいことを伝える手段としてのヒップホップ」でした。しかし上のエントリを読んで考えた結果、それ以外の部分・・・つまり「スタイルが生み出すメッセージ」への言及の必要性を感じました。まずは読んでみてください(→http://d.hatena.ne.jp/bokosu/20080308/p1

◇「日本の」ヒップホップ云々って話が不毛過ぎるってのがあって、確かにそこに固執しちゃうと不毛になっていくんだけれど、やっぱりそこを一度考えておくこと自体は不毛ではないんじゃないかなって思います。外からの見え方って、やっぱりそこなんじゃないかなって。上のエントリでも最後のほうにふれられている通り、ヒップホップはやっぱりヒップホップであることを要求され、しかも実際そうなっている、と。
 ヒップホップをヒップホップたらしめているのは、「これはオレたちの文化だ」っていう感覚。ロックは「ヤツら」を歌うものだけど、ヒップホップは「オレら」を語るもの。だから独自のスタイルには必然性がある、と。すると、向こうで出来上がったヒップホップをそのままに取り入れても、それは結局「彼ら」のものでしかないから、「日本なのにギャングスタ(笑)」って見られ方が出てくる。そして、そういったオリエンタリズムが日本人ヒップホッパーの「オレたち」度を上げてるってことになるわけです。
 さて、この、格好を真似することで奇異の目で見られる→奇異の目で見られた者同士に「オレたち」という連帯意識が芽生える→少数派のオレたちには言いたいことが沢山あるぜ・・・っていう、発生とは逆に働くベクトルは、本当に元々なんにもないから捏造してるよ〜みたいに見られるかもしれないんですが、っていうか僕もそう思っていたんですが、実際はちょっと違うと思います(いや、もちろんそういった人もいるんですけれども)。
 実は、元々なんにもないから捏造してるんじゃなくって、何か見えなかったものを、スタイルに乗っかることで見えるようになっていくってこと。つまり、韻を踏んでラップするっていうスタイルが生み出すメッセージ*1ですね。
 だから、ラップすることに対して、語るべきことがない云々はとりあえず横において、どっぷり浸かっちゃえば何かが見えてくるのではないかと思ってる今日この頃なんです。

ぼくは、「ラップすべきこと」や「背負っているもの」といったことを全く意識していなかったから。ていうか、そんなにラップするのって、特別なことなの?ってくらいな気分。海の向こうのラップは勿論知っていたし、少なからず日本とは違うよな、同じこと言っていたってリアリティないよな・・くらいのことは漠然とは感じていたけど。それについて深く考えるより先に、降神MSCのライブを観てしまった。だから、ヒップホップだからレゲエだからロックだからどうこうは元々特別に志向の俎上になかったのだろう。

そうなんだと思う。ラップすることを特別だとは思わなくていいんだって気がします。
 んで、僕はやっぱりそういう風に出来上がった言葉がどのようなものなのかってことが気になったりしてまして。つまり、スタイルによって見出されたメッセージはどんなものだろうって思います。ここでいうメッセージってのは、具体的な説得的な言葉ではなくって、表現っていうこと。ヒップホップのスタイルが持つ表現力っていうのは、「日本のヒップホップ」っていう文脈だからこそ検証可能な気がします。別にムリに唯一性を語りたいわけでもないんですけれども。

*1:これについてはbrainz佐々木さんクラスの受講生Hさんに教えていただいた曲でいいのがあるんだけれど、CDは出回ってない・・・。tac-rocというラッパーのリリックがすんごく面白いわけ。付録CDに是非とも入れさせていただきたいんだけれども