web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

ほんとうにうそをつくこと

◇例えば誰かが悲しい気分になっているときに、それを聞く僕は安易に「わかる」とは言えない。たとえ「わかる」と思っても、その「わかる」気持ちは、手垢にまみれた表現(「俺もそういう経験あるある」みたいなヤツ)では伝えられないし、意味の価値すらなくなっている表現で共感を示すのは不誠実で怠惰だとすら思う。
 僕が苛立ちを覚えるのは、誰かが悲しい気分になっているときに、それを聞く僕らが「わかる」と手垢にまみれた表現で言わざるを得ない状況。そして、共感というものがそんなに簡単に行われるものだと思われてたりする状況。これが非常に気持ち悪い暴力性を帯びるんだと思う。
 だから、僕は悲しい気分になって心底落ち込んでも、それを大声で叫ぶのは避けたいと思う。大声で叫べば叫ぶほど、周りが慰めてくれることは知っている。でもそれが上っ面の、手垢にまみれた言葉であることも知っている。そうした言葉で話すヤツは、勝手に、そして安易に共感していることも知っている。そういう上っ面のコミュニケーションが嫌いだから、そういうコミュニケーションが生まれそうな行動は極力控える、というのが僕の信条。

◇強い感情は、自分の中にしまいこんでおくことが困難で、どうしてもにじみ出てしまう。だから、悲しい気持ちを自分の中に押さえ込もうとしても結構難しい。
 ただ、その、にじみ出た感情というのが、「ほんとう」だったりして*1、それは安易な共感を跳ね除ける可能性を持っていたりもする。痙攣としての爆笑とかってまさにそうで、押さえ込もうとしても、どうしても噴きあがってしまうあの痙攣を、瞬間的に共有することが上っ面でない共感だと思う。注:爆笑・・・インプットされた情報を正常に処理できなかったときに起きる、機能不全としての筋肉の痙攣。

◇悲しい体験をした→その体験を高らかに叫ぶ、という図式は、「悲しさ」という記号を身に付けるための体験、つまり、自分を周囲に「悲しい気持ちになってる人間です」と宣言するための体験でしかない。体験から何かを抽出して言葉にするのではなくて、言葉を言いたいがために体験を当てはめる、という行為。それをここでは「うそ」と呼ぶことにする。具体的には、ドラマみたいな恋愛がしたい!!みたいなヤツね。
 とはいえ、この図式ってかなり強靭で、にじみ出た感情の結果として「好きだ」という言葉があったとしても、それが記号である以上、「うそ」と受け取られてしまう可能性はいつだってある。だから、「好き」と言い合う関係は、一方が「ほんとう」にそう思って話しても、もう一方には安易な共感を誘発する可能性がある。
 そうした「うそ」のラインから逸脱する手段を模索することが、表現の持つ可能性のひとつだと思う*2

◇押さえ込もうとしても、にじみ出てしまうものが「ほんとう」だと書いたけれど、人間的なキャパが広がると、にじみ出ることもなくなっていくらしい。

(略)(「うそ」を設定することで「ほんとう」を自己生成する、みたいな話を考え中)

◇<中略>

◇ところが、とどのつまり、僕らはそれが「うそ」か「ほんとう」か見分けをつけることが出来ない。しかし、そうしたことを「ほんとう」であると設定し、そして言い切ることが、信頼であり、意志であり、愛であるのだと思ったりする。

*1:最近それを「ほんとう」と呼んでいいのだと思っています

*2:僕は、この「表現」という言葉が有効であることがすごくありがたいと思っている