web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

○○系あれこれ

◇「方法としての体育会系」だって→http://www.tbsradio.jp/life/2008/07/podcast.html#more

◇それにしても、サブカルとか文化系とか、今もまだみうらじゅんの定義は生きてるわけですな。やっぱそれだけ偉大だってことなんだろうけど、でも、体育会系に対して文化系っていう定義は、そろそろ更新できるくらいになってるんじゃないかと思う。今回のLifeがそうなったらいいな。っていうかなるでしょう。

◇そもそも、体育会系であるか文化系であるかっていう話の前に、自分の中で価値を作っているか、価値に振り回されているかっていう問題があるんじゃないかって。なぜか体育会系は価値に振り回されてると思われがちだけど、ホントはそうではないんじゃないかって。

◇体育会系のイメージを、予告ポッドキャストで鳥山ディレクターがすごく見事に言い当ててた。「目的に向かって、別の要素を入れずに遂行できるのが体育会系」っていう。これ僕もおんなじイメージなんだけど、それはつまり、世間一般の「価値」とされていることをそのまま自分の「価値」とすることができるって意味なわけで、そこに「それぞれの人間にはそれぞれの価値があるし〜」とかっていう言い訳はしない。妙な逃げ道は作らずに、真っ向勝負で挑んでいく。そこが体育会系のすがすがしいところで、僕があこがれるところ。

◇まず、この体育会系的精神は素晴らしいっすよ。単純に考えて、一般的な価値の枠組みの中で善き人になることを心がけているものだと思うわけ。で、多分こっからが体育会系批判の対象になる部分だと思うんだけど、ちょっと考えてみると、こうした仕組みは必ず序列というものを作る傾向があって、やっぱり上が下を見下すような構造ができてしまうような感じがする。
 スポーツでいうと、ルールに見合う身体をたまたま持っていたら、それは才能と呼ばれ、努力の度合とは別の次元でルールの序列の上の方に組み込まれやすい。そんな人もいるわけだから、序列の下にいる人をいっしょくたに「努力が足りない」の一言で見下している人がいたら、そりゃあ腹立たしいだろうなと思う。

◇さて、こうした側面を持つ体育会系に対して、「世間一般の目的を自分のものとして持ち合わせることができないから、仕方なく自分なりに目的を設定し直して生きていくのが文化系」ということになる。
 これは確かに体育会系的序列によって下とされた人々を救う概念になるし、実際にそういう形で救われてきた人も数多いことだと思う。そんで、そういった人々がオルタナティヴな価値観を持って、現行の社会で立ち行かない問題に解決策を示すことができる、というのもまた確かなことでしょうな。
 ただ、ちょっと微妙なんだけど、別にそれは一般的な価値観の反対をいってるわけではないってことに注目しなきゃなんない。一般的な価値観とは少しずれたところに自分の価値観があるわけだから、そのふたつの間でうまくバランスをとり、なるたけ善良に社会の中で生活していく、というのが文化系の理想的な姿だと思う。
 ところが、中には見下されたことが腹立たしいから、革命を起こして今とは逆の価値体系をつくり、あんとき俺を見下してきたヤツを見下し返してやろう、なんてわけわかんないくだらんことを考えているやつがいる。たまに文化系とかっていう呼称をカッコイイと思って使ってるヤツがいるけど、それって自分から恣意的に線引きすることで、捨てるに等しい自尊心を守ってるだけだと思ったりする。

◇簡単に言うと、僕は文化系であることでその下らない自尊心を満足させようとする人が嫌なわけです。自分が一般的な価値観を持つことができないという事実に全く負い目を感じることなく*1、むしろ「一般的な価値観を持つなんて、バカじゃん?」的な視線を持って、普通に生活している人々を見下そうとする。僕は、そんなものは世間一般の価値観からズレた人間を見下すことと同等、てかそれ以下だと思う。

オルタナな価値観って、一般からどうしてもずれてしまう人への救いになると同時に、努力したくない人の逃げ道も作ってしまっているわけで、後者の場合は自己反省を促すことができない。それが僕は一番醜いと思う。

◇で今、アンチを唱えるべきメインも見当たらないなあという状況では、何かの呼称をまとうことで自分という人間のパブリックイメージを支えるっていう「自分ブランディング」が盛ん。mixiの参加コミュとか完全にそうですね。「自分ブランディング」する人なんて大抵、他者に映り込んだ自分がブランディング通りに映っていなかった場合、他者の方を否定することになる。こーゆー自分の視点を簡単に絶対化しちゃう人が嫌なんです。

◇そして何より、どうしてこんなこと書いてるかっていうと、ホントにキライなものっていうのは、自分の中の醜い部分、つまり自分がそうなってしまうかもしれない恐ろしさを反映していると思うので、書くことで整理しておこうと思ったわけです。

*1:てか、別に負い目は感じなくてもいいと思うけど、一般的な価値に順応して普通に生きている人がいることに配慮もせずに