web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

『義男の青春・別離』/反省点のメモ

つげ義春の作品集が、文庫本で3冊ほど(新潮文庫より)出てるんだけど、そのうちの『義男の青春・別離』というのが、僕が一番大切にしてるヤツ。やっぱり表題作にもなっているような、自伝的要素の強い(と思われる)作品がひときわ印象に残るわけだけれど、それ以外にもこの作品集には、『夢の散歩』『夜が掴む』みたいなイメージ主体の作品も所収。このまとめ方がすごくイイ。主人公の主観と作者の主観を近い形で描いている自伝的作品と、作者の主観を変換して作品の通奏低音みたいにしているイメージ作品。作家つげ義春の創作の源泉を覗いているような、見事なキュレーションだと思った。
 例えば、『別離』と『必殺するめ固め』。前者が自伝的で後者がイメージ。両方に共通するのは、恋人を奪われた男のやりきれなさ。恋人と浮気相手の生々しいセックスを想像することは、おそらく最も残酷で悲惨なもののひとつだと思う。『別離』において、主人公の男は睡眠薬自殺に失敗し、朦朧としながら裸足で歩く病院からの帰り道、「冬の淡い日射しをうけて今にも消えいりそうな自分の影を見て(←引用)」涙をとめどもなくこぼす。一方『必殺するめ固め』では、突如として暴漢に妻を奪われ、「するめ固め」という謎のプロレス技を喰らって歩くことも口をきくこともできなくなってしまった男が、元妻と暴漢がセックスをして幸せそうに暮らしているのをただただ見つめる。元妻から「あの男と所帯を持っても、あなたをみすてたりしないわよ。おとなしくさえしていれば、いつまででも面倒みてあげるから・・・・。(←引用)」といわれ、「あの男もそんなに悪い人間じゃない」といいながら差し出された食事に、「あう・・・・。」と言いながら応じる。
 こんな風に『別離』も『必殺するめ固め』も、描かれていることは同じだと思う。どうにもならないことに涙し、どうにもならないことに脱力するという諦念。そうした諦念が、「消え入りそうな自分の影」や「あうあう」という醒めた表現になってるんだと思う。

◇前回のエントリを読み返したけれど、キライなものについて書くのが苦手だってことがわかったw。てか、具体的に自分以外のキライなものについて書いたのは初めて。
 文句だけ言って自己完結した文章にならないようにと意識した結果、説教臭くなってるよ・・・涙。説教ほど自己完結したものってないし。何度か書き加えたりもしてるんだけど、なんかもう根本的にうまく行ってない気がする。しゃべってる時みたいなノリで書けなかったってのも理由のひとつかも。嫌味にならないように気を遣って、しかもそれが頓珍漢なやり方だからいけないんだと思う。一回、実際に会話したのを文字起こしして、そっからもう一回文章にしてみたらいいのかもしんない。