web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

最近観たもの読んだもの/夏だしね

古谷実ヒメアノ〜ル』。もしもこの作品が自伝的な要素を離れたドラマを作ろうとしてるのなら、今までの読者を一回断ち切った方がいいのかもしれない。ってちょっと思った。例えばモーニングに移るとかね。担当も替えて、新たにフィクション作家としての古谷実も確かに見たい。
 ああ、もしヤンマガから出ないんなら、ぜひともファンタジーが見たい。

◇『バッファロー'66』。むちゃくちゃ情けないヴィンセント・ギャロと、ありえない聖母のクリスティーナ・リッチ。すっげー良かった。僕は『さらば冬のかもめ』が超好きなんだけど、その続編としても観れるかも。
 なんつうか、ギャロっぽい情けない自暴自棄って、多分だれでも一度は経験することで*1、自分を相対化することに慣れていても、どうしても辛い時期っていうのはある。それがいままさに爆発しそうになったとき、思いとどまらせるのは女の子の母性。母親じゃない女の子の母性。
 クリスティーナ・リッチは実在しない*2けど、クリスティーナ・リッチへの期待や記憶が童貞の暴走を食い止めるんだなって思う。

◇『僕といっしょ』。またかよってくらい読んでるけどw。

 小さい頃、今となっては理由がわからないけど、僕はむちゃくちゃ泣きまくっていて、なにやら親にキレられているみたいだった。子供の頃はそうゆう時、とにかく悲しくて、子供なりに絶望らしきものを味わったりしてるわけなんだけど、僕はそのときたまたま鏡を見つけた。鏡になきじゃくる自分の姿を発見して、ふと「今とっても悲しい気分だけど、笑うことって可能なんだろうか」と思った。果たしてそれは簡単に実現した。悲しくたって、簡単に笑える。考えたら、その瞬間に「絶対などない」っていうことを知っていた気がする。
 僕に「絶対」があったのは、思春期の一瞬かもしれない。もっと言えば、爆笑してるその一瞬だけだったと思う。爆笑して痙攣してる身体のその瞬間だけが、僕にとって絶対であり、それは充分信じるに値した。だからその時期、両親よりも何よりも友達との爆笑の日々が価値を持った。
 親に揚げたてのてんぷらを投げつけられながら家の外に走って逃げw、その日は丁度町内のお祭りの日で、まあいいや友達とオールできるからって思って遊んでるときは楽しいんだけど、結局朝方友達はみんな家に帰り、僕は家を追い出されたことを誰にも言えずに、自宅の裏に隠れて寝た。
 なんだかんだで夏休みはすんごく暇なやつがいるもので、昼間はやり過ごすことができるんだけど、みんなが帰る夜になると、さみしさに耐え切れずに町田に歩いていった。今はもうなくなってしまったけれど、当時はまだ赤線があって、そこのピンク色のネオンに照らされながら歩いていると、東南アジアとかから来た女性がにっこり笑っていて、僕はテレながらもしっかり笑顔で返し、ちょっと会話したりもした。女の子達も二の腕つかんできたりして、エロい気分になれたし、とにかく楽しかった。昼は友達と過ごし、夜は赤線をニヤニヤしながら歩く夏休みの夜は、僕にとって最高に幸せな日々だった。家に帰ってやわらかい布団で寝たいっていう気弱になる自分がイヤで、徹底的に爆笑した。
 ある夜赤線を歩いていると、外側に面した店舗の窓ガラスが割れていて、その前で男が頭から血を流しながら正座していた。男は半分眠っているみたいな声ですいませんでしたと言って、もうひとり、犬の絵のジャージを着た金髪の男が何か怒鳴っていた。僕はばれないように今来た道を引き返し、徐々に歩くスピードを上げていって、充分な距離になってから全力疾走した。街の中心部にきて、人々の喧騒に触れたとき、サンダルの底が折れ曲がっていて、ちょっと力を加えたら千切れそうになっているのに気がついた。ジョナサンに入ってドリンクバーを頼み、トイレで手と顔と足を洗った。メロンソーダとコーヒークリームを持って席についた。混ぜるとクリームソーダの味がする、という昼間友達から聞いた話しを思い出していたからだ。

◇『イカとクジラ』。妙にリアルなエピソードがいくつも。実際に在ったことなんじゃないかと思う。ウィスキー飲んで床に倒れた時に鼻からカシューナッツが出てくるとこ(観てない人にはなんのことやらですがw)は、笑っちゃいけないけど可笑しい瞬間で(しかもそのカシューナッツが長いこと鼻に入っていたっぽく、湿りきってる)、こういうのを描けるのは、オトナになって振り返るからだと思う。

*1:そういう体験のない幸せな人間はなんとなく信用できないw。いや、いいことだと思うけどさw

*2:それにしても、童顔巨乳のイメージってどこでも一緒なのね