web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

少女の成長譚は、少年の成長譚になる。

◇『時をかける少女』。娘が出来たら絶対に観せる。そして息子にも観せる。

◇土佐有明さんが『土佐有明WORKS』http://d.hatena.ne.jp/ariaketosa/20090630(通称:土佐本)に異常なテンションで書いていたので(スンマセンw)、どんなもんだろうと思って観てみた。てか、正直文章の内容は忘れていて(益々スンマセン!!)、今日ツタヤが半額で貸し出ししてたので、5本くらい借りようと思って最後の一本何にしようかな〜と思って、ふと思い出したのが土佐さんの「もう“紺野真琴”って名前からしていいよ!!」っていうキモイ一言だったので(うわ、マジごめんなさい!!泣いて土下座!!)、ついつい借りてしまったのでした。
 いや、なぜ僕が土佐さんの文章を忘れていたかというと、理由は単純で、土佐さんの「青春ゾンビ」っぷりが僕にはどうも理解できなかった、というもの。そして、そんな僕は『時をかける少女』を、僕の現在として観てしまった。

◇主人公紺野真琴タイムリープってマジでヤバイ。女の子は、本気かつ純粋に、ああやって高いところからダイブしてしまう。それは全く無垢で無知で、つまりイノセントな行為で、そしてなんとも腹立たしく残酷な美しさを持っている。土佐さんはここに描かれた「眩しすぎる青春」を、「永遠に戻ってこない青春を懐古し、回顧し続けるしかない」大人のための作品と言っていたけれど、もうちょっと限定してしまうと、女の子の自己中心的で残酷な、あるまじき美しさを崇拝する男の子達のための作品なのではないか、と思う。
 てか、これを「俺のための作品だ」って叫ぶのが非常にキモイんだけどwww。

◇性差に鈍感な主人公紺野真琴は、男子二人とキャッチボールして遊べる関係が何よりも心地いい。こうゆう関係ってめちゃくちゃステレオタイプに違いないけれど、でも僕らは女の子がこうゆう関係を本気で願う傾向があることを知っている。僕らは、女の子が「だってどっちが好きなのか、ホントの気持ちがわからなくなっちゃったの!!」っていうセリフを全く悪気なく言ってしまう存在であることを知っている。そして、そういう女の子の非情で冷酷な純心に傷つけられながら、僕らは彼女の美しさにひきつけられ、飼いならされていく。
 つまり、あのぬるい三角関係がこれほどまでにまぶしいのは、青春ゾンビとなった大人目線というよりも、女の子目線ってこうなんだろうなっていう男の子目線(紛らわしいよ!!)なのだ。男の子によって絶対化された女の子と、その絶対が失われる瞬間。この作品は、少女の成長譚であると同時に、崇拝の対象を失う男の子の物語である。

◇少女の成長譚、と一言でいってしまうのはたやすいけれど、その「成長」の一言にどれほどの諦めが含まれているだろうか。女の子が女になる、というのは、絶対性と引き換えに美しさと醜さを獲得するということであり、そしてそれはつまり、相対化される=最強でなくなるということなのだ。誰かにどこかで確実に負ける世界に入り込むことなのだ。
 そしてそれを眺める僕らは鑑賞後、少女がいつかは絶対でなくなること、そして少女でなくなった女性を愛することを考える。絶対でない女性を唯一として愛すること。つまり、僕らの成長譚が作品の外に待っている。

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*1:このエントリの「少女」っていうのは、最近僕がぎゃーぎゃー言ってる「処女」に当てはまります。