web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

過去と未来とカタルシスに関する未推敲のメモ。

◇いずれちゃんと書き直しますけど、書きなぐります。

◇『マグノリア』。日本の小学校教育を受けた人が観たら、ほとんどの人が『はれときどきぶた』を思い出すはず。ネットで色々検索したら、『出エジプト記』と大雨を表す南部の慣用表現になぞらえてあるらしいんですが。

◇いまさらだけれども、『はれぶた』は、自分が全能という不自由さに耐え切れない少年のお話。自分が全能でないことを証明するために、彼は「絶対に起こるはずのないこと」を絵日記に書き込む。それは、そらからぶたがふってくる、ということだった。絵日記の天気欄に「はれときどきぶた」と書き込み、それがついに実現する瞬間に出くわすと、恐怖に耐え切れなくなってそれまでの絵日記の内容を全て消してしまう。

◇さて、絵日記というのは、過去に起きたことしか書けない。絵日記に書かれたことには、過去の出来事という前提がある。『はれぶた』の少年が行ったのは、未来のことを、過去に起きたことと捉えて絵日記に記すことで、どんなにでたらめなことを書いてもそれが実現してしまうのは、どこまでいっても自分が過去に縛られる存在であり、不自由であることを意味する。
 ぶたがそらからふるという「絶対に起こるはずのないこと」は、実現しないことによって彼の自由が担保されるという仕組みになっていた。だから、はれときどきぶたの実現は彼の絶望そのもの。

◇『マグノリア』は、消せない過去や罪を認めた瞬間に、絶対に起こるはずのないカタルシスが起こる*1。そして、それに対しても「もしかしたらありうるかもしれないこと」と、絶望を回避する。
 つまり、『はれぶた』の少年のミスは、「ぶたは、もしかしたらふるかもしれない」という想像をしなかったこと。全てが自分の絵日記の通りになるということを、早い段階で信じてしまったこと。実際にぶたがアスファルトに叩きつけられ、母親が夕食にとんかつを用意するまで我慢できなかったこと。
 『はれときどきぶた』においてどんな出来事をも疑い続けることは、『マグノリア』においてどんな出来事をも肯定し続けることと同義。絶望しないためには、「絶対に」を放棄しなければいけない。

◇ちなみに『出エジプト記』ってのは、エジプトにおいて奴隷状態にあった者たちが預言者モーセの指導によって集団脱走した事件。この出来事は、後のバビロン捕囚の時期に、ユダヤ人が自己と神のつながりを確認するために持ち出された概念。バビロン捕囚の時期、ユダヤ人は具体的に神とつながりを持てる手段を持たなかった。だから彼らは、過去の出来事を思い返し、それによって自己と神のつながりを保証するっていう方法をとらざるを得なかったそうな。つまり、過去によって現在と未来が規定されるっていう考え方をここで導入したことになりますね。

*1:それ以後出てこないアフリカ系の少年は、「純粋な罪」?