web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

近況/『サマーバケーションEP』メモ

昼夜逆転も一気に直して、こないだから朝7時起きが続いている。奇跡に近い。

◇そうそう。みなさんに以前お願いした件。sさんが国会図書館でモーニングをコピーしてくださったので、無事『マリさん』(読みきり)は手に入りました。sさんはじめ皆様、ご協力ありがとうございました。

◇8月31日。デパートの屋上のビアガーデンへ行って、もう見事に大雨にやられたよ・・・。4杯飲めば元が取れるからと、傘差しながら彼女と血眼になってグラスを空ける作業。お腹ばかり膨れて味わうこともあまりなかったけど、楽しかったな。彼女大好きw。

古川日出男『サマーバケーションEP』読了。つげ義春とは全く違う方法で、それと同水準の余韻が立ち上がるようになってる。

◇夏。一瞬。永遠。これらを読者に喚起させるために用いられてるイメージが、ノスタルジックな憧憬ではなくて、「いま・ここ」にある東京の風景。顔で固体識別が出来ないという主人公*1の視点を通して語られるひとつひとつの描写は、シンボルから意味へと自動的に変換されることなく、風景をいま一度自分たちの手で変換する。つまりこれこそが「先に何があるかを知っていながらも、川沿いを延々と歩く」という行為っていうことになる。
 しかも、どうしてもベタになってしまうような言葉の扱いもとっても丁寧。「川=人生」みたいな連想も、中国人の登場人物に発言させることで、中国的詩的感性に則っていて陳腐さを回避する。これはかなりお見事。

◇そういえばつげ義春の場合、情景に与えられた「匂い」や「熱」を共有することで、一瞬という永遠が作品から立ち上がるようになっている。この作品で主人公が行っているのは「匂い」や「熱」という記号をリセットして設定しなおすことで、そこらへんがまあベタにいえば「再生」ってことなのかもしんない。

◇僕の話すセリフは、もっと前に誰かに語られているかもしれない。けれども、そのセリフを話すのは「この僕」に他ならない。
 川沿いを歩いて、その先を見届けるということ。この先にある結末を知りながら、わざわざ歩いていくということ。風景。匂い。音(オン)。熱。これらの情報を、あらためて自分の身体を介して変換する。
 そして、この作品を「読む」というまさしく身体的な行為が、追体験ではない体験としての「川沿いを歩く」ことになる。

スチャダラパー、そして瀬田なつき『彼方からの手紙』。フランソワ・トリュフォー大人は判ってくれない』。川を辿ることと、そして海に直面することは、逃避の可能性をめぐる結論となる。川沿いを延々と歩く行為は、海にぶつかることで終了する。そこで目の当たりにするのは、決定的な閉塞。自由の終わり。けれども、決定的な終わりは同時に無限の開放。川の終わりと終わらない海は同じなのである。
 一瞬とは、つまり永遠のこと。終わりの瞬間、残響はいつまでもリフレインし続ける。

*1:こういうのなんていうんだっけ?