web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

最近妙に眠いのは、現実逃避したいから・・・??

◇やっとこさエンジンかかってきた就職活動。企業の方もこの時期になると自動的に絞れてきて、選択肢が大幅に狭まってくる。自分で決められないから誰かに決めてもらうっていう原理が働いています。

◇それにしてもこれ(http://expoexpo.exblog.jp/8686106/)、めちゃくちゃおもしろそうな話したみたいですね・・・。行きたかったな。てっきり難しい音楽の話ばっかするのかと思って勝手に敬遠してしまったよ。

僕は自分自身、誰かの/何かの「信者」であったことは一度もないし、そういう関係性や気持ちの回路が苦手です。
でも、それゆえに、誰かの/何かの「信者」になる、「信者」であることで、安心したりハッピーになれたり自己確立が出来るようなタイプの人や、自分の「信者」を作る、「信者」が居ることによって、安心したりハッピーになったり自己確立が出来たような人からは、たぶんあまり好かれない。そしてそういう人はきっと案外多いのだろうと思う。
でも、それは仕方がないことだと思っているのです。

これ、方法は全く違うのだけれど、僕も同じことを思ったりしている。僕は誰かの/何かの「信者」でいなければ自己確立はできないけれど、でも誰かの/何かの「信者」になって自己確立したところで、それが全く安心できないことを知っている。
 好きだっていうのは天啓でもなんでもなくて単なる意志の問題っていうことをずっと思いつづけてるわけだけれど、じゃあなんで僕はわざわざそういう意志を貫こうとしてるのか。絶対的なものが欲しくて、僕はひとりの女の子を信仰するわけだけれど、でもその絶対性なんて僕が見出すから絶対になるだけで、その外側なんていくらでもあることを知っている。
 佐々木さんが上記引用のような形で話している「信者であることで落ち着く人間」っていうのは、その信者同士の世界を全世界だと思って生活する人間、その生活が安心するって人間だと思う。たしかに信者になるっていうのはそういう小さな世界に自分がとどまることだったりする。けれど、僕がそんじょそこらの信者よりも抜群に頭がいい(てか、そいつらが不誠実過ぎるだけw)のは、極めて個人的で小さすぎる信仰の世界を自覚的に作り上げることで、その外側の広大さを把握できるって点だと思う。
 だから僕は絶対者を大勢で信じてる気分になってる一神教のヤツら*1に対して「一生やってろバカが」って思うし、そもそも絶対者を共有するってことの意味がわからない。例えばキリスト教の場合、絶対者は、だれにとっても独占的に対象とされ、そして、それが一方的な独占欲求でしかないことまで自覚したうえで、はじめて共通の不可能性を僕らは知るわけだ。それは絶対者が共有されることとは根本的に違う。信仰って、その信者がいくら大勢いようとも、いつだって個人的な関係でしかありえない。と思う。
 僕は信仰の対象に具体的な個人を用意して、その具体的な個人と同一化できず、そこには社会や世界が挟まってくる不可能性を感じている。つまり、方程式としては全くクリスチャンのそれだったりする。

◇映画にも飽きてきて、次は何が来るのかな〜と思っていたら、また音楽の季節になってきたw。季節で表すのは、僕の「〜熱」っていうのはぐるぐる巡るらしいから。
 昔のCDをiTunesに入れたりして整理してたら、diskaholic anonymous trioと、ルーネ・グラモフォンのコンピ『ルーネオロジー』が出てきて、ちょっと聴いたらめちゃくちゃ良かった。ルーネ・グラモフォンからAlogというアーティストを知ってiTunesStoreで『Miniatures』購入。
 音響っていうんですか?あんまり知らないんですけど。diskaholicは、意味に回収されていた音がもう一回意味から解放されるような、こっちの耳が対応する前にぐいぐい展開してく感じ。んで、Alogの方はいくつかの音を並べるとこっちの耳が勝手に反応して美的なものを汲み取りますって感じ(http://www.myspace.com/alogicstudios)なのかな?
 で、Alogは二回目に聴いたらかなり驚きが減ってしまった・・・。diskaholicの方がどんどん面白くなってくる。なんで?

◇『人志松本のすべらない話』のゴールデン第三弾がやっていたそうな。僕はyoutubeで全部見ました。個人的に僕はほっしゃん。のスタイルが一番好きなんだけど、でも今回MVS獲った小藪千豊のスタイルもかなりよかった。小藪は、なんていうかフローがすごくよかったり。話の笑いどころが、大きいのをどかんと出すんじゃなくて、流れの中でテンポよく繰り出される。反対にほっしゃん。は、最後に大きなオチがある。それは『すべらない話』って言われたときに一番想像しやすい、オーソドックスなスタイルだと思うんだけど、やっぱりこういうスタイルって、話の中に伏線が張られたりして、聞き手にオチの予測をさせる。でもほっしゃん。がすごいのは、その僕らの予測したオチを上回ったり、外したりしてくるところ。ゴールデン第二弾か第一弾か忘れたけど、おかあさんのタンポンをダイナマイトだと思い込む話とか、ビンタの話とか、予測したことを普通に上回って笑ってしまう。
 でね、オチを知っていてもう一回見ても面白いのは、やっぱり小藪的なスタイルなんじゃないかと思う。もちろんほっしゃん。だって話がうまいので、二度同じ話をしても充分面白いんだけれど、やっぱり一度目の驚きの方がすごい。
 つまり、Alogとdiskaholicの話。

*1:誤解を受けそうなので、しっかり注釈します。これは一神教そのものを批判してるんじゃなくて、一神教の原理を全く履き違えてるヤツを軽蔑してるんですからね