web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

『ヒメアノ〜ル』と『俺たちに明日はないッス』メモ。

◇『ヒメアノ〜ル』(古谷実)1巻。単行本で読み直してみると、連載では見えなかったものが段々見えてくる。というのも、もしかしたらこの作品には『ヒミズ』と『シガテラ』の両方が対置されていて、お互いが交錯するかもしれないって。
 森田君の絶対(運命)は社会と切り離されることによって成り立つし、安藤さんの絶対(運命)は社会の中に求められるためにコロコロ変わる。岡田君が社会の中で絶対化する(かもしれない)ユカさんを、森田君は社会と切り離されたところに連れて行こうとしているのかもしれない。多分、女性を想う安藤さん&岡田君(シガテラ派)のそれと森田君(ヒミズ派)のそれは、両方とも至極まっとうな感情だと思う。

◇『俺たちに明日はないッス』(さそうあきら)。『百万円と苦虫女』という童貞女子のトンデモ妄想映画を撮った監督が映画化したというので、そしてさそうあきらへの評価を最近やたらと周りで聞くので、ちょっと読んでみたらこれがめちゃくちゃ面白かった。マンガの方は高校生の童貞的悶々よりも、トランスセクシュアルorジェンダーの印象が強い感じ。でも多分トランスジェンダーっぽい形で描くことで、男の子の乙女心と性欲が言い換えられるって解釈できるんだと思う。
 「ヤリたい」という男の気持ちが、邪気の無い純愛として存在するっていうのはホントで、ちょっとこういうこと言うとかなりヤバイんだけど、童貞であろう中高生の性犯罪とかを見ると複雑な感情を抱いたりする。ただ、純愛というと、その人でなければならない必然性を帯びている感じがするけれど、実はそうでもなかったりして、内面だとか見た目だとかっていうものも実は純愛とは遠いものだったりもする。性欲っていうのが実存在全てに対して起こりうるものであると同時に、純愛も内面やら外見やら状況やらっていうものがいっしょくたになった状態で起こりうるものだと思う。つまり「この人好き〜」ってなってるその瞬間は、それを全て純愛と言い切ってしまえる・・・というのが『俺たちに明日はないッス』という限りなく刹那的なタイトルにも現れてるんだと思ったり。

◇ところで話がちょっと変わるけど、童貞の悶々がまんまの形で表面化する時期って、実は中学生の頃じゃないかと思ったり。高校生だともう少し他のことに転化するのがうまくなってる気がする。それに中学の頃ってやっぱりみんなが童貞っていう前提があるから、太った男のおっぱいをいきなり揉んだりしながら、みんなでわいわいがやがやできるってのもある。高校生くらいになってくるとまた童貞と非童貞の違いが明確になってきて、童貞っぽい下ネタでクラス全体が湧いたりすることなんてなくなるよな。世代や地域差もあるだろうけれど、二次性徴真っ只中の中学生の時期が最ももてあます時期かと*1

◇映画の予告編を観たんだけど、ちょっとシリアスな感じある?「明日はない」っていうのが時代的な閉塞感と意図的に結び付けられているようなら、僕はあんまり観たくない。正直、先に映画を知ってそこから原作の存在を知ったので、「明日はない」って響きが性欲をよりどころに「せざるを得ない切実な“今”」を描いている作品だという期待を持って原作を読んだ。でももっと普遍的な感覚が原作にはあって、それがすごく良かったって経緯があるだけに、映画はちょっと観るか迷ってる。

*1:ちなみに、思春期と青春期を取り違えるケースをたまに見ますが、思春期っていうのは日本でいうと中学生の時期にはもう大体の男の子が迎えていて、高校生ってもう思春期“以後”だったりする。つまり精通の時期