web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

2008年を感情的に振り返りながら新年のご挨拶。

◇「何かになりたい→なれない→しょうがない」。そんな当たり前の結論に行き着くことができたのは、ただただ彼女のおかげ。それまでは「何かになりたい→なれない→なれない自分をなかったことにする」なんてヤバイことやってたw。何かになろうがなれなかろうが、彼女は「いま」「この場」にいる「この」僕を受け入れてくれるわけで、もう言葉もないくらいありがた過ぎる。この受け皿がなくなってしまうなんて恐ろしいことは考えられない。考えない。彼女と僕をつなぎとめる確実なものなど何もない中、彼女の言い分だけをただ「鵜呑みにする」ことが、僕の「いま」を担保しているに違いない。それが、「唯一」というものを現出させる(捏造する?)方法なのだと考えている。

◇第一期BRAINZの最終授業に提出した僕の古谷実論は、今『アラザル』という同人誌で読める形になっている。あれから大体一年くらい経った。その脱稿の瞬間は、今もまだ完全にリアルな感触を伴って記憶している。古谷実の作品を「論じる」という大義名分のもと、自分の問題に矮小化してしまっていることに気付き、失望と罪悪感を覚えたのだった。

◇若手批評家の近藤久志は、「チェルフィッチュをどげんかせんといかん」と常々話し、ついに書き上げたchelfitch論で『アラザル』に参加している。岡田利規の問題意識を、演劇の技術論、作品の主題論の両側から、持ちうる限りの知識と資料を総動員して挑んだ。全く門外漢で、いわゆる「批評」なぞほとんど読んだこともない僕にとっては充分にコーフンできる面白さがあった(そして、もちろん僕のような素人でない見識ある方からも評価が高い)のだが、その批評に冠されたタイトルは『chelfitchのこと』。その抽象的な表現の中に、書ききろうという意気込みと、書ききれなかったという敗北宣言を読み取ってしまう。教養も文章の巧みさも全く異なるレベルで戦っている彼が、僕と同じ敗北感を負っていたのだった。

◇僕はとりあえず「好き/嫌い」という恐ろしく単純なことから考えていくことにした。この単純な二分法を用いる限り、どこまでいっても「僕にとっては」という接頭辞は外れない。しかし、だからこそ、僕はそれで/がいいと思っている。

◇僕は世界を自分に映る鏡としてしか捉えられないことを知った。僕はこの世を僕の好きなものだけで満たしたい・・・。つまり、気に入らないヤツは殺すか何かして排除すればいいのだ。しかし、嫌いなヤツを殺したところで嫌いなものがなくなるわけではない。嫌いなものとは結局自分の中にある嫌いな自分。僕が生きている限り、必然的に嫌いなヤツは存在し続ける。

◇だから僕は、嫌いなヤツを攻撃し始めた。手始めは文化系女子だったw。彼女らの抱えるおぞましくも身勝手な自意識は、「ああはなりたくない」が、しかし充分に「ああもなりうる」僕そのものだった。僕は彼女らを攻撃すると同時にどんどん自分のことが好きになり、そして彼女らのことも好きになってきた。彼女らの醜さはつまり、「しょうがない」のだ。

◇つまり、僕はみんなを好きになりたいということだ。気に入らないヤツを殺しても埒が明かないのなら、気に入らないヤツ/ことをそのまま「しょうがない」と諦めればいいのだ。嫌いなヤツと話しをして、本気で腹を立て、本気でいなくなって欲しい、とひとしきり問答してから、「しょーがねーやつだな」と心底呆れる*1。そして、諦めてしまった瞬間から、「ま、それもありかな」なんて思えてくる。消極的に、とりあえず今は生きてるから生きるわけで、僕はそう。

◇そんな2008〜2009年。ピースって感じw?
 今年もよろしくお願いします。

*1:驚くべきことに、僕は親孝行したい気分になっているのだwww