web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

ユニクロ酔記

◇なんだか最近、やたらと“時間”の話題が多くて、たまたま読んでいた監督のブログにもまたそんな話を見つけたんだけど、ああそうかこーゆーことだったのか、と気がついたりした、かもしれない→http://newav.exblog.jp/11125118/

◇ていうか、そうか、時間がせきとめられて流れていない・・・。というのはつまりはアレだ、ファッションの世界なんか典型なのね、と、(実は)アラザル1号に寄稿されていたMひろくんのgucci論を読みながら思ったりした。というのも、この論の中における彼の主張は、ファッションにおける「伝統」への関心は、実はビッグブランドがピックアップするっていう政治力学の上に成り立っていて、つまり『物理的時間をも反転させる後天的に構築された虚偽の歴史性を呼び込む』そうなのだ。な、なるほど。

◇さて、別にハイファッションの世界に限らず、「今年の流行は白!」みたいな操作っていうのもまた、まさに溜まっていったストックから選び取るだけの作業だよなあ。これはつまり「時間が流れていない」と言い切れるわけだ。必然と偶然のせめぎ合いがなく、つまり可能性がない。可能性がなけりゃ蓋然性もない。ただ溜まった時間だけがあって、それが流れるものだってのを知らない。

◇ところで、ユニクロが好きだ。僕はお洒落を楽しむっていう積極的な姿勢を持ったことはないんだけれど、とはいえみっともない格好は避けようという消極的な姿勢から、服選びには気を遣う。そんな僕に、とりあえず奇抜でなく、誰が見ても均一であり、同時にいかなる主張もしない(←ってのも主張になるんだけどね、ホントは。「無印良品」って名前の矛盾みたいですけどw)服を着せてくれって進んでったら、つまりユニクロがとっても具合がいいのです。
 ところで、洋服の基本的な機能とは何か。それこそ人によって色々考え方はあるけれど、僕の場合、「似合うか似合わないか」という価値基準を用意させるものっていう感じだ。実は今すごくいいこと言った気がする、まあいいや。えっと、では、「似合う似合わない」の基準をどこにもってくればいいか。僕の場合、それは僕であると同時に身の周りの人間である。出会ったことのないデザイナーの目ではない。なぜなら僕にとっての服は生活のものだからだ。またちょっといいこと言った気がするな、まあいいんだけど。自分と周囲の目を限りなく漸近させていって、つまりそれは平均化させるってことで、その先をずーっと見ていったらそこにユニクロが構えていたってわけ。

◇永遠っていうのはつまり、全て呑み込むはずの時間の流れに唯一例外的に存在するものなわけで、つまり全部の時間が停滞していたら存在しない。その永遠っていうのにはどんなんあるかなって思って考えてみたら、例えば一瞬なんて言葉が浮かぶ。もっと言うと、それは一瞬を感じ取る自分の主観的な記憶なのかもしれなくて、つまり永遠っていうのは実は、固有に流れる時間を用意して、その中にはじめてありうるのかもしれない。

◇ファッションの話に戻るけれど、飽和状態になったらぐるぐる使い回していこうぜっていうのはすんごく妥当な判断だと思う。思うんだけれども、それは歴史的な文脈とかの上ではそうで、それとは別に極めて私的な固有の時間があるってことは忘れずにいたいわけだ。要はさ、例えば高校のときの数学って教科書に「記録」された公式を組み合わせまくって解いたけど、その公式自体をまっさらなところから考えていこうっていう態度もとれるはずだ。

◇ちょっとご飯食べてくるから今日はここまで。

◇酔っ払いながらもうちょっと書く。

◇「その人の内を流れる固有の時間」っていうのが僕はちょっと大事だと思っていて、んでね、ファッションの話に戻るけれど、ユニクロっていうのはその人の固有の時間=生活の時間に即した服を提供すると思っている。つまりどういうことかというと、思想だけになったファッションを、きちんと我々の身体や肉体のものへと取り戻してくれるってわけだ。そしてユニクロから純粋な流行が生まれたとしたら、それはつまり「今年の流行はダウンです!」とかっていう過去のサンプルを提示するようなもんじゃなくなって、一瞬にして沸き立つブームとして記憶されるんじゃないだろうかって思う。

◇なんだか文章がヘンだ。こないだから非公開のブログに何本か文章を書いてるんだけど、そのせいで調子が狂う。結構書いてて楽しいんだけど、読むとあんまり面白くないのねw。どうやったら面白くなるだろう・・・。