web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後五時半。蒼い夕暮れの部屋で、夕食の支度を聴いている。

◇これから妻の両親と、我が家で鍋。

◇『ニューシネマパラダイス』。不可能性が映画を映画たらしめる、という主張もそうだけど、最後のシーンへの前フリがすごくよく効いてる。すべらない話みたいだ。

seeda『Dear Japan』と『Hell's Kitchen』。


麻生、オバマ民主党自民党飯島愛筑紫哲也、こういった具体的な単語がリリックに含まれることに、違和感を覚えるはず。僕も、ずっとこういうのは日本語のリリックにおいては「詩的でない」と思っていた。確かにそれもそうだとは思うのだけれど、今僕が思うことは、そういう「日本語の歌詞において具体的過ぎる単語は詩的でない」という主張は、ある部分では、確実に「逃げの口実」とされてきたのかもしれない、ということ。
それは、TBSラジオ『ウィークエンド・シャッフル』における人気企画『R&B馬鹿リリック特集』でも同様のことが言えて、ヒップホップにおけるリリックとは、こういうどこまでも具体的かつ「これはちょっと…」な表現にこそ、魅力が詰まっている。
つまりラッパーには、具体性が求められる。具体性=リアルと置き換えていいと思う。だから、『dear japan』がテレビで観たようなことから綴られたリリックだったとしても(磯部涼氏による批判。『ゼロ年代の音楽』焼け野原からの出発)、それを日本語リリックに落とし込むときに、具体的性を失わずに固有名を出したという点では、やはりリアルなラップだったと思う。

アラザルの原稿を書き始めた。リアルな原稿が書きたい。

アラザルを支えるのは、というか多分ほとんど全ての同人誌を支えているのは、フリーター及びその価値観だったりすると思うんだけど、彼らがこれから色々な側面から自らの生活と関わっていくときに、どういう形で折り合いをつけていくのだろう。就職と同時に同人誌はおろか、ブログを書かなくなる人もいるかもしれないし、あるいは同人誌自体が生業となるように努力する人もいるかもしれないし、あるいは生活のための仕事、ライフワークとしてのものづくりといった感じにきれいに分ける人もいるかもしれない。