web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後9時。妻がごぼうを剝いている。

◇我が家はちゃぶ台生活なのだが、座布団で書き物をするのに慣れていないせいか、進みが悪い気がして、昨日実家から折りたたみ式の机といすを持って来た。広げる場所を吟味した結果、台所に置くことに。
 折りたたみ式の机といすではあるが、そして台所で妻が明日のお弁当のおかずを用意している横ではあるが、なんだか僕は書斎を持った気分になって、静かに喜んでいる。妻の後ろ姿を見ながら書き物をするというのもいい。それぞれが、同じ場所で違うことをしている。違うことをしているが同じ場所にいる。こういう状況が心地良くて、締め切り間近のアラザルの原稿も捗る気がする。

◇義父の誕生日だったので、ケーキ持参で妻の実家へ。柴犬の奈々の散歩に行きながら、逞しくなった腰回りが左右に揺れるのを眺めていた。新婚旅行から帰って来た直後の僕も、奈々から太ったと思われていただろう。散歩から帰ったら近所の安楽亭で焼き肉。僕や奈々とは反対に、義父は退職してから食欲ががたりと落ちたようだ。食欲は何かしらの意欲の象徴とされているものだが、その流れで考えると義父のことが少し心配になるのだった。

◇昨日は、id:ama2k46氏より本をいただく。三月書房刊の江藤淳『犬と私』である。手紙がついていて、この本を古本屋で見つけたこと、僕が持っていた方が良さそうだということ、ささやかだが結婚祝いにしたいということが書かれていた。本の扉を開くとそこにもまた文章が乗っていて、ama2k46さんと奥様と愛猫の連名で僕らへの祝辞がのっていた。一体、本を送るということほどロマンチックなものがあるだろうか。誰かが書いたものを手に取り、読む。その読んでいる瞬間の出来事を期待して、また誰かに本を送る。本に刻み込まれた著者の時間と、読者になった者の時間と、これから読者になる者の時間。黙読という濃密な時間のやりとりは、歴史を目の前に置く行為なのだ。そして同時に、歴史は一様ではないということも考える。当然のことなのだが、僕らはたびたび、便宜上の「歴史」と歴史を取り違えてしまう。

tumblrは最高だと思う。