web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前9時。目を閉じ口開け、小鳥のやうだ。

◇枕元にどら焼きを持って来て、妻の目覚めを手伝っていた。

◇たしか井上靖しろばんば』だったと思うのだけど、おばあちゃん子である主人公の少年が、毎朝目覚めにもらうあめ玉や砂糖菓子のことを「おめざ」と呼んでいた。我が家でも、休日の朝には妻に「おめざ」をあげたりなんかしているわけで、なんだかあのおばあちゃんの気持ちがものすごく分かるのだった。

◇何かの目的をきっかけに始める以上、目的を達成した時点で終わりになる。始まりと終わりがあるということは、つまりそこには時間があるってこと。全ては時間に支配され、僕らはその下で小さく縮こまりながら生活せざるを得ないのか。そういう不安は、最近だと『インセプション』なんかがそうだけど、自分のものではない自分の生っていう風に、これまでにも何度も何度も恐れられてきた。永遠だとかそういうものがものすごく魅力的に見えたりするのは、その不安によるものだろう。
 永遠を得るためには、歴史にその名を刻めばOKだと思っている人はいるだろうし、それはある意味ではそうかもしれない。歴史は、途切れぬよう語り継いでいくものだから。しかし、では、歴史だって何かの拍子に語り継がなくなるかもしれないじゃないか、だからそれだって永遠ではないじゃないか、という疑問はどうだろう。確かに歴史の中身に関していえば、この指摘の通り永遠ではない。まあ現実的には不可能に近いだろうが、忘れてしまえば中身は消えるということだ。が、ひとつ歴史と自分の生と永遠を考える上で重要だと思われるのは、歴史を語り継いでいこうという意志についてである。
 語り継ぐという意志の発現は、まさに時間を超えようとする試みだ。それは、別に歴史的な事実でなくったって良かった。歴史と神話の関係を考えれば、それは自明だろう。そして大事なことは、語り継ぐという行為自体には、目的がない。体のいい言い方として、過去の過ちを繰り返さないために歴史を学ぶ云々ってのもあるけれど、それは目的の方が後からやって来ている。あるいは人間が秩序を持って暮らす為に云々もそう。歴史というものに「目的」の役割を押し付けることは可能だが、語り継いでいるという行為自体の理由などにはなり得ない。なぜだかわからないけれどもそうしている。そうとしか言いようのない不思議な熱意が浮かび上がってくる。そうして不思議な熱意に絆されるまま歴史を語るとき、思いを馳せるとき、今目の前にある時間というのは、無視される。このとき、歴史は大文字の正史でもなく、共有されるべき記憶装置でもなく、極めて個人的な体験として肉感される。つまり、当たり前のことだが、自分の生と歴史の中身には関係がない。ただひとえに、語り継ぐ、自分の言葉として記憶する、ということが、自分を時間の支配から自由にする。この不思議な熱意は、愛と言い換えられるかもしれない。

◇水泳は45分1700メートル。今日も嬉々としてカウンターを使って泳いでいたのだけれども、眼鏡の似合う競泳水着のお姉さん係員からダメだと言われてしまった。シリコンや布、ゴムなどはOKらしいのだけれど、これはプラスチック製なので、人とぶつかった際に怪我の原因になるかもしれない、とのこと。たしかに、あそこのプールはノンストップで泳げる専用コースが一往復分しかなくて、混雑しやすい。今回はとりあえずいいけれども、次回からはご遠慮いただきたいということで、カウンターは短い現役期間を経て引退となった。短い間だったけど、ありがとう。

◇一曲目を作っていて、煮詰まったので他のトラックで違うリリック書いてたら、昨日の通勤時間で半分出来てしまった。そういうもんなんだよな。そしてMTRがない。レコーディングをそろそろ考えねば。

◇-WE NEXT- (S.L.A.C.K. / RAC A SET / SQUASH SQUAD)

iPhoneでリリック書いてラップしてる=nextって演出してるのかな。本当に層厚いなあ。みんなラップすればいいのに。