web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後3時。嚔で妻に返事をする。

◇遅い昼食を外で食べることに。その後買い物。暖かく穏やかな天気の筈なのだが、くしゃみと涙がすごい。これが花粉症というものなのだろうか。ついに僕もこの季節を手放しで喜べなくなってしまった。くしゃみのし過ぎで後頭部が痛い、とかなんとか大げさなことを言いながら、帰宅したらすぐに昼寝。優雅な週末。

◇水泳は45分1950メートル。あと一往復で2000、というところで時間切れ。悔しい。今日はしっかり50分泳ごうと思っていたのだけれども、つい頬の毛を抜くのに夢中になってしまい、毛抜きを手放せずに気付けば出発時間を5分オーバーしていたのだった。ちなみに、頬の毛は右頬と左頬で生え方が大分違う。右のものはほとんど髭くらい太くなっていて、そのかわり本数が少ない。左のものはまだ産毛以上髭未満といったところで、細いが本数が多い。

小島信夫抱擁家族』を読みながら『劇的ビフォーアフター』を見たりする。日曜の夜。

◇一組の夫婦を中心に構成される核家族にとっては、書斎と台所が大きな意味役割を担うことになる。家に壁が用意されることで、その内側と外側の概念が明確化するわけだが、しかしさらにその中で外部と内部を隔てるものが書斎である。台所は家の中の公共を担っている。台所を自らの居場所として定められる者は、家庭全体を自らの内側に感覚しているだろうが、書斎にしか自分の居場所を見出せない者は、自分の身体以外を自分の内側として感覚できない。つまり、書斎を持ちたがる人間は、圧倒的な外部としての自然に常に怯えており、台所で落ち着ける人間は自らの内にその自然を飼っていることに自覚的なのであろう。
 現在、我が家の台所には書斎がある。夕食の準備をしている妻の後ろ姿を眺めながら、僕はリリックを書いたり原稿を書いたりしている。僕と家の境が曖昧になることによって、僕と家の外との距離が近づく。もし僕がこの部屋で一人暮らしをしていたならば、チャイムが鳴っても居留守を使うだろうし、固定電話も取らないだろう。特に理由もなく出社拒否しているかもしれない。現に、妻が朝早くバイトに出かけ、僕がその1時間ほど後に出社していたときなど、家を出るのが非常に億劫であった。家を出ようとした瞬間に隣人がドアを開ける音が聞こえ、電車を一本遅らせたこともある。部屋全体が自分の書斎になってしまい、家庭というクッションを挟まずに外に出なければならなくなってしまったのだ。
 しかしまた僕はここで、ある一人の男性のことも思い出す。学生時代、駅係員のバイトをしていた頃によく見かけたのだが、決まった曜日の23時頃から終電近くまで、駅の改札を出てすぐのベンチにひとり腰掛け、マンガ雑誌を2冊ほど読んでいる。ひとしきり読んでからゆっくりと立ち上がり、マンガをカバンにしまい込んでやっと家路につく。彼にとってこの時間は、おそらく自分が支配していると思い込める唯一の時間なのではないか。職場と家庭という二つの公共空間の間で、本来最も公共的要素の強い筈の駅のベンチを、彼は自分だけの空間に作り替える。傍らにはマンガ雑誌がある。そういうクッションも、必要なのだ。

◇そういえば、最近マンガ雑誌を読まなくなった。ヤンマガもスピリッツも、ヤンジャンもモーニングも読んでない。

◇日常的な動作で見慣れないものを作る。あるいは、見慣れないことをしているっぽいのだがどこまでも日常的な動きをしている。ただの狂人にならないで、なんだか常識的な部分を持った人にも見える、変なパフォーマンスだ。

多分これらのパフォーマンスはひとつの流れになっていると思うので、この動画からは色々と判断できないことが多いけれども、ちょっと面白さを感じたのはこのパフォーマーの喋る動作の見せ方だった。喋るということに付随する要素をいくつかに分解して見せている。喋るっていうのは、声と言葉を伴う。声、つまり発声には息を吸って吐く動作と、音の要素が含まれる。言葉には、連続するということと判読可能性がある。そういったあらゆる喋ることに必要な要素を、ひとつひとつ分解しては色々と組み合わせを変えて、喋る。

◇花粉症の人は、お花見とかどうしてるんだろう。