web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後9時。揺れる前の記憶を思い浮かべている。

◇強く揺れたときの光景を頭に浮かべるとき、同時に今朝の妻への挨拶や昼食時の会話などを思い出している。あの瞬間、こんな揺れを予測できただろうか、という当たり前のこと。
 昼食時、父から電話がかかってきた。先日、宮城で震度4を記録した際、そのことで僕は祖父母に電話をしていたのだった。父は「電話してくれてありがとう、おじいちゃんもおばあちゃんも喜んでいたよ」と伝え、僕は忙しかったこともあり、適当な返事をしてすぐに切ってしまった。それが大体午後1時ごろ。その約2時間後、再び祖父母宅のすぐ近くを震源とする大きな揺れが、新宿にも伝わった。
 大きく揺れている最中に妻から着信。出てみると地震だようこわいようと泣いている。なんとなく『宇宙戦争』のダコタ・ファニングが頭に浮かび、僕は少し二枚目になった気分でとりあえず深呼吸することを伝えた。そうしながら、ぼんやりとフロアの至るところで棚が落ちるのを眺めていた。あとからわかったことだが、この建物では8Fが最も揺れていた。
 揺れの合間を見て外へ出て、携帯が繋がらないのを確認してから公衆電話に入り、自宅→妻の実家→僕の実家→父の携帯に連絡を試みる。妻とは次の大きな揺れの際にどこに逃げるかを相談し、妻の実家には妻の無事を伝えたのち、新宿御苑に向かった。
 御苑には、おそらく会社できちんとした対策が取られていたのだろう、ヘルメットをかぶっている一団がいくつか見られた。またリクルートスーツに身を包んだ人もぽつぽつと居る。就活生は、こういうときにすぐにヘルメットを配る企業に就職したらいいのではないかと思う。恐怖の体験を語って談笑してる人の姿を見ているうちに、あるいは少し肌寒くなって会社に戻ろうと思ったとき、『ヒアアフター』は見ておこうと思った。
 あるいは恐怖がすぐに意味に変換されていく様子を見ながら、僕は今朝の妻の様子や昼食後の珈琲の味を思い出していた。そしてこれがなければ今日は週末を楽しみに帰宅しているだろうと考えていた。

◇一度社に戻り、先ほどは繋がらなかった両親に連絡を取る。
 母は犬と猫を抱えながら、自分がいかに危険な目にあったかを延々と語っていた。父は新横浜から町田まで歩いて帰っている最中であった。
 今どこにいるのか尋ねると、いやあそれがわからなくなってしまったんだよねと笑う。実家の近所を流れる恩田川と横浜の鶴見川は同じ川だから辿りつけると思ったそうだが、恩田川は鶴見川の支流である。支流から本流に行くのならまだわかるが、本流から支流に行くのは道を間違えやすいだろう。田舎のスノッブたる父の少しズレたサバイバル術であった。
 その後、しばらくしてから連絡を取ると、もう青葉台という実家のすぐそばであった。

◇ひとり会社で暇つぶしにこれを書いている。時折の余震にめまいを錯覚しつつ、泊まりを覚悟している。祖父母の安否は未だ不明である。

追記
◇その後、京王線が復旧し、電車に。何か不穏な空気を伴った大勢の人間が一カ所に集まっているのが非常に恐かった。正直、単発の揺れやら被害やらが恐いんじゃなくて、そういったひとつひとつがずーっと、連続して起きているという状況に耐えられなくなって恐怖になっていくのだと思う。なぜか大勢で階段を降りたり登ったりしているときには、ほとんど子供のように声をあげて泣きたくなるほど恐かった。
 午前1時過ぎに帰宅。家は全然無傷であった。妻と二人で荷物をまとめ、こたつで暖をとる。

追記3月13日
◇祖父母の無事の連絡。10年以上振りくらいに従兄弟と話をした。従兄弟の両親が仙台に住んでおり、直接祖父母の自宅まで行って確認してきたのだそうだ。それにしても、従兄弟も僕も互いに電話の向こう側に「女の気配」を漂わせており、なんだか妙にどきどきした。また平和なときに食事でもという話をして、電話を切った。