web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後4時。妻の昼寝を見ている。

◇外出から戻ると、陽当たりのいい部屋で、妻はすやすやと寝入ってしまった。窓際なので、少しの揺れでもすぐに起こすことに決めている。

◇一応週末である。お昼は外食に。その後八王子をぶらつきながら、僕の花粉対策眼鏡を買ったりクイックルワイパーのドライを買ったりした。駅前や街中の広場には募金をよびかける団体がずらりと並び、若い女性だけ狙うティッシュ配りたちはいつもより少し窮屈そうに動き回っていた。
 度の入っていないでっかい眼鏡が、江藤淳みたいで結構気に入った。

◇日常というのが上から降ってくるものだなんて思っていない。いつ訪れるともしれない不幸への怯えが、この日常の母体であるということを忘れてはいない。

死ぬほど好きな人を…… 幸せにできるかどうか?
わかった!!! 答えは「不幸になるまでがんばる!!!」だ!!!
不幸がおとずれる寸前まで僕は!! 君を超幸せにするぜえええええええ!!!
古谷実シガテラ』6巻より一部抜粋〜

不幸の気配に常に怯えながら、しかしそうなっていない今をとりあえず生きる。これを逆から読むと、不幸や幸福という判断は、単に今の状態しか表せないことに気付くはずだ。つまり、『シガテラ』におけるこの決意は、不幸と絶望を別々のものとして切り離す態度なのである。
 先週の金曜日以降、日常が崩れ去ってしまったかのように感じる人も居るかもしれない。しかし、それが全く間違っていることは、『シガテラ』を読むずっと以前から知っているはずだ。私達の日常とは、そもそもからして、不幸の吐息を感じながら育てられてきたものだ。95年の暴力を例に挙げるまでもなく、ずっと大昔から続けられてきたものである。不幸を内包しながら、無力感に陥って絶望に駆られるより先に、私達は育てるという行為を続けてきた。そうした営みをもって、私達は生きていると言う。生きることと希望が同義であることを、私達はずっと前から知っている。

不幸を知っているからこそ、日常を生み育てることができる。

◇11日以降、水泳には行っていない。設備点検や節電の関係で、市民プールが開いていないからだ。