web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後1時。曇り空とアスファルトの上、舞う花びら。

◇散歩がてら。近くの小学校には桜がよく咲いていた。少し肌寒い風が吹いていたけれど、歩けば充分暖かい。曇りでぬるい気温のなか、なんだかぼんやりした気分になる。
 こちらの事情などまったくお構いなしに地震は起きて、こちらの事情などまったくお構いなしに春が来る。

◇それにしても、春と秋って、気温や湿度で比較するとどれだけ違うものなんだろう。冬の後だから暖かく感じて、夏の後だから涼しく感じるといった具合なのかもしれない、とかぼんやり思う。そういうことを考えるのは、なぜか大抵春な気がする。夏の後だと、そういうことより先に夏を思い返してしまう。

地震津波原発にまで、自意識を投影させるバカがいる。笑う。

福島はヒロシマに通じ、3.11は9.11に通じる、こりゃきっと異邦の諸君も畏れるに違いないよと、夕食の席で悪態をついて柚子の眉を顰めさせたのは数週間前。しかし実際に、福島をフクシマと片仮名がきで記し、「ポスト・フクシマを生きる私たち」とか何とか書いてあるのが出てきたのをみて、思わず失笑する。書かれている内容に対してではない。何かが変わらないわけはないのだから。そうではなくて、ダダ洩れになってしまっている書き手の昂奮に対してである。端的に云って、はしたないのである。
〜『天のさだめを誰が知る!?』〜

 この「はしたない」様子は、ねえ聞いて僕は辛い辛い辛いんだあと大声でわめくガキに似ている。何かとてつもないものに遭遇したときに、遭遇した自分を絶対化して語ることは、物事を自分サイズに矮小化して短絡させることになる。地震陰謀論や差別主義者による悪意のデマも、その意味ではほとんど同じ。その時点で、それは「どうにもならないとてつもないもの」ではなくなり、自分の絶対性の保証書になってしまう。
 自分の絶対性の保証書を見せびらかして、ほらね、こういうものがあるから僕は絶対なんだなんて語るヤツほど、今ここにいる自分自身を直視できない。そもそも彼らのいう絶対なんて、多くの人に無二の存在だと思われたい、という程度のことでしかなくて、それは歴史の中に名前を刻みたいだとか、そういう自意識の極北でしかない。自分の理想像を、他人の目に映る自分像と一致させたいというだけの話。それで世界を語ったつもりになるんだから。
 苛つくのは、そういうのとほとんど同じ話が、この期に及んでまだ出てくることだったりする。もういいよ。自分の死を自分で確認することができない以上、自分自身は絶対であるだなんてことを、いまだに言わなければならない。佐々木中だってやれやれだろうな。何かにつけてポストポストって、本当に、何を終わらせたがってるんだか。

◇こういう話を、再びすることになるとは。どうやら反復を恐れないっていう姿勢に触発されたみたい。俺は新しいことをしているぞって意識こそ、何かが終わって欲しいっていう願いに近かったりするだろう。

◇市民プールは、もう当分開かないだろうなあ。

◇暖かくなったので、頭を12ミリに刈った。

◇Life Goes On - Tupac