web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後5時。老犬が猫背でまどろむ玄関先。

◇考えたらあまりブログに書いていないのだが、毎週妻の実家に行って夕食を共にしている。いつも元気よく出迎えてくれる柴犬の奈々は、今日はなんだかゆったりと僕たちを迎えていた。年を取った印象も受けるのだが、よく思い出してみると若い頃からそのようなことは多々あるわけで、これはどうやら春のまどろみを彼女なりに表現しているらしかった。

◇最近なぜだか紹興酒を呑む機会が多く、すっかり嵌ってしまって自分でも購入。結構酔うので、実は安上がりでもあったり。

◇そのせいか、今朝の二度寝で久々に夢を見た。ほんの数分の間に3つくらい。
 宇宙船が墜落して、宇宙人がどうやら降りて来る。僕と小学生時代からの友人だけがそのことに気付き、とりあえず逃げていた。やっぱりあり得ないことなんてないんだなあと言いながら、宇宙人の探索ビーム(?)から身を隠し、ふたり声を殺して失笑していた。

◇先週の選挙に触れていなかった。感想は、失望の一言。石原氏の再選そのものではなく、石原再選を阻む動きが本当に一部だけのものであったことに対して。もちろんデモも大切な手段だし、ある意味ではツイッターやブログなどで頑張るのも大切で、それは石原氏の当選云々とは全く別に、これからも続けられていく必要のあるものだと思う。僕が失望したのはそれとは違う文脈の話であり、立場の違う人間との対話がどこかにあったのだろうかということが気になるのであった。本当に最悪なことだが、母親はテレビに真実があると思っていて、父親は週刊誌に真実があると思っていて、子供はネットに真実があると思っているという状況が、結構マジにあり得るのではないか。三者がそれぞれ勝手に井戸端会議、呑み屋、ネット上でのみ自分の意見を表明するに留まって、対話がないということ。自分と意見の異なる人との対話が決定的に失われているのだとしたら、これはもう本当に投票の価値、そしてゆくゆくは表現全般の価値が、どんどん軽いものになっていく。

◇数日前の木曜日、お昼過ぎに会社を抜け出して、ソフィア・コッポラ『SOMEWHERE』を観てきた。
 会社抜け出してSOMEWHEREなのさやれやれ、とか思いながら映画館入ったけれど、いい年してSOMEWHEREとか言ってるのも気持ち悪いな、と改めて自戒させられる。
 「何かと遭遇することを徹底的に忌避している」というama2k46氏によるソフィア・コッポラ評に集約されてしまうのだが、かつて『ヴァージン・スーサイズ』において、この作家はまさにそのことを描いていたのだった。忌避の徹底。その徹底故に、映画内で描かれないその外側が否が応にも立ち上がる。置いていかれる少年たちが途方に暮れる描写はしっかりと覚えている。
 こうした思春期的な幼さがいまや全世代共通のものであって云々というのが、この作家が支持されたり、あるいはもしかすると彼女自身が積極的に主題として選ぶ背景のひとつなのかもしれないのだけれども、やっぱりそういったことの情けなさや恥ずかしさに鈍感な作品は、見ていてあまり気持ちのいいものではない。
 『SOMEWHERE』は、ほとんど『ロスト・イン・トランスレーション』シリーズと言ってもいいくらい、設定や人間関係が似ている。年の離れた二人の男女が二人だけの世界を戯れたいと願うが、さてさてそれはどうなることやらという話で、今回は、明確に親子となっている。単純に不快だったのは、この親子の一体感の確認方法についてだ。ふたりの世界になると、どうしても自分たち以外が背景になるというのはやむを得ない事実だが、彼らは出来事に対してシニカルな姿勢を取り続けることで、自分たちの外側のあれやこれやを積極的に退ける。父親と娘が共通点を感じるのは、「引く」ポイントが同じというところ(『ロスト・イン・トランスレーション』においても感じたことだが、シャカリキでハイテンションな女性への悪意は、文化系女子的なコンプレックスをどうしても連想する)。
 当然のことだが、やはりそんな風に血眼になって親子の一体感を確認しようとしても、娘は安心できないし、父親もこれでいいとも思えず、しかしかといって何をしたらいいのかもわからない。その何もできなさ、もどかしさ、ふがいなさがこのシリーズにおける重要な感情だろう。
 しかし、これは観ていてどうしても思ってしまうことなのだが、やはりこの父親はただバカなだけなのであって、これはかなり致命的なことなのではないか。印象深いのは、イタリアの映画賞だかなんだかを受賞するシーン。父親が受賞スピーチを行おうとした瞬間、セクシーな衣装を身に纏った女性たちが歌や踊りで祝福する。それがいかにも、イタリアっぽい陽気なハイテンション演出ってこうなんですよーとでも言いたげで(おそらく『ロスト・イン・トランスレーション』における藤井隆もそうなのだろう)、こういう、言葉や文化のささいな違い程度に、シニカルに失笑してるだけで済ますから駄目なんだと思ってしまう。つまり、このどうにもならなさがどうしても切実に見えないのは、どうにかする手立てというのがもう簡単にわかってしまうことだ。自分の知らないものを楽しむ、という姿勢を少し持てば、一発で解決してしまう。
 この作品の出口には、愛車を捨てるシーンが描かれている。彼にとって都合よく矮小化されたイタリアであり、かつ外の景色をバーチャルに塗り替えてくれるフェラーリを、自ら望んで降りるのである。冒頭に映った周回するフェラーリのシーンと対比させると、やはりひとりの男の心理的成長…というか、成長しようという決意までを描いたと言えるのだろう。この男が徒歩で向かう先は、タイトルに示されております、ということなんだろうが、しかしこれはいくらなんでもどうでも良い話過ぎないか。はっきり言っておくが、これは、ここではないどこかを夢想する話ではない。ここではないどこかを夢想するに至るまでの話、なのである。そして、そのことの情けなさや恥ずかしさには鈍感なままなのである。撮り分けのないつまらない映像も、この物語のテーマと照らし合わせてみると、意図的というか、そもそも撮り分けるつもりすらないのだろうと思える。
 私は映画の中に映画の外側を映すことはできません、できることは外側を感覚することです、という態度は正しい。のだが、しかしそれは映したいという欲望に突き動かされた努力を尽くしながら、悔しさまじりに述べる台詞だと思っている。最初から無理なので私はそれを諦めます、という態度で語られるお話には、やはりどうしても、僕は無理矢理付き合わされる感覚を強く覚えてしまう。

◇ところで、これは映画としての面白さではないのだが、ソフィア・コッポラ作品が象徴するある種の自意識は、確かに面白かったりする。
 女の踊りが三回登場する。双子によるポールダンスシーンが2回と、娘によるフィギュアスケートのシーンが1回。他にもいくつかのダンスらしきものはあるけれど、とりあえず明確に対比させているのはこの3つだろう。それぞれに映像としての区別はつけずに、鑑賞する父親の態度で踊りの優劣が決する。つまり、傍から観ている限り、それぞれのダンスは似たり寄ったりの下手糞ダンスで、決定的な違いはない。あるいは、3つのダンスのうち娘のフィギュアに特権性を与えているとすれば、同じ衣装の双子にポールダンスを踊らせるところだろうか。双子は、不特定多数の、つまり顔の区別のない人間の象徴だ。そんなポールダンスと同じ地平で描かれる娘のフィギュアというのは、なんだかとても悲しい話ではある。ギプスの描き方についても同様のことを感じる。多くの女性のサインが入ったギプスに対して、しかし最初にサインしたのも私だし、外した後に一緒に居るのも私なのよ、ということくらいしか特権を主張できない。
 この自分に対する自信のなさが反転して、いつのまにか貴方は私と一緒にいないとダメなのよ、と無根拠に言える感じが、ある種の恐さになろうところではある。そういう狂気の萌芽は、『ヴァージン・スーサイズ』に見え隠れしていた気がしたのだが、それは気のせいだったのだろうか。

◇日本がこのまま貧乏になったら、こういうサウンドシステム的なものが出て来てくれるのではないかと思っている。

倍音よりも音割れの方が目立つカリンバなんて聴いたことがない。こういう荒っぽい電化の魅力は、電気のプリミティヴな衝動を感じさせて、今の気分にものすごくマッチする。