web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後9時。残したケーキの一人分。

◇ひとり一切れとはいかなかった。明日の朝にとっておくつもり。最近はふたりとも食が細くなって、自分自身がどれだけ食べられるかよく把握できていない。

◇とりあえずアラザル用の原稿『ラッパー宣言 第二回』に区切りをつけて(先週ブログを更新しなかったのは、こっちに付きっきりになってたせい)、一晩寝かしてから推敲を試みる。明日には完パケでいけるかな。死と不在、恋愛と殺人、つまり僕と妻の断絶のお話。なんのこっちゃだけど、読んだら笑いながら納得してもらえると思ってる。少なくとも僕はそうなる。

◇昨夜はアラザルのMさんご夫婦のお祝いパーティ。結婚して一周年目のパーティなので、披露宴と呼ぶのかよくわからないけど、すごく良かった。おふたりの笑顔が浮き足立ったものではなく、僕たち招待客と地続きなところにあって、それは結婚して一年経っている云々とは実はそんなに関係ないのかもしれなかった。なによりおふたりが既に似ているということを考えると、よりいっそうそう思えてくる。いいもんだなあ。
 パーティの場では久しぶりにKさんともお会いして楽しく話ができた。そういう意味でも、Mさん夫妻に再び感謝。

◇RauDefとzeebraがやり合っているということだけれど、相変わらずラップよりもその思想を云々する評し方があって、それはあんまり面白くない。というよりも、そういう評し方しかできない人は、佐藤亜紀氏がツイッターなどでたびたび言っているところの「音痴」なのではないかと思う。ラップを面白いと思う感受性が丸ごと欠如しているから、disなど各人の思想が際立つときにだけそういう批評をする。別にそういう批評もあって当然だけれど、それ「しか」できないというのはやっぱりdisがラップという形式に落とし込まれていることの意味がわかってないんだろう。
 ラップは、何よりもその口述が展開していく様子が一番の聞き所だと思ってはいるけど、まあその辺りの設定は各人大事だと思うところでやればいい。ラッパーにオピニオンを求めるならば、確かにその思想性も重要にはなってくる。でもね、ラッパーはいわゆるところの言論に思想をこめるのではなく、ラップという特殊な言論に思想をこめる。そういう基本的な事実を忘れるのは致命的。言葉のリズムと声のマテリアルへの意識を欠いたラップが成り立たないのと同様、それを欠いたラップ批評はその時点でラップ批評ではない。zeebraをdisったという事実だけでRauDefにキレることと変わらない。

◇ところで、かつてseedaとverbalがビーフに発展しそうでしなかったということがあった。返す返すも悔やまれる幻の対戦だけれども、この件について語るとしたポッドキャスト番組では、両者のdisの捉え方の違いが如実に顕われていた。

 これは全くの推測だけれども、seedaはやはり、思想はラップを駆動するエンジンでしかない、と捉えていたのではないか。崇高な思想も日々の喜怒哀楽も、同じラップという表現のうえで展開する。何をテーマに選ぼうと、最終的にはラップという形でしか残らないのである。良し悪しとはラップの良し悪しでしかない。disり合いとは一種のエデュケーションであり、その輪の中に入ったラッパーやリスナーは急速にラップを聴く耳を鍛えていく。
 seedaはその方向でシーンの発展を願い、verbalはオピニオンリーダーとしての自覚を持って、ラッパーではなく言論人として語った。どういう思惑があったにせよ、verbalはseedaから受けたdisとそれへのアンサーを、ラップ抜きの言論にしてしまった。果たして内容的にどちらの方法論がシーンの発展に寄与するのか僕は分からないが、こういう言論の場に引っ張り出されて尚フリースタイルをかましseedaは、ラッパーとしての勝利はしっかり収めていたと思う。
 とはいえこの一件があったからこそdisについて僕が意識的に考えることができたのは確かであり、そういう意味でverbalの問題提起は全く慧眼だった。そしてそのことがつまりverbalが優れた言論人であることを証明してもいる。

◇今更この問題を引っ張り出して来たのは、今回のRauDef対zeebraとその周りの反応を見て、そして手にした佐藤亜紀『小説のストラテジー』を読みながら、やっとあの出来事の整理がついてきたからだ。