web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

テレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』

 上映期間も終わりかけの時期に駆け込んだ。そのときはまだアラザル用原稿を書いている最中だったので、どうしてもそっちのテーマに惹きつけて観てしまう。つまりこれは、時間を自分のものとして掴む映画だ。
 生命の起源を語る映像の連続は、一歩間違えればやたら大仰で野暮ったい。これらは様々な生命の連鎖を順番に描いていき、そのままひとつの家族の物語へと流れていくのだが、この流れは見ようによっては、あるひとつの家族の物語を、この地球誕生の歴史になぞらえるようでもあり、尊大だと受け止められる節もあるだろう。ただ、これを長男による記憶、太古の昔から脈々と受け継がれてきた記憶として捉えてみると、全くもって凄まじい時間認識で何かが語られようとしていることに気が付く。別にネタバレどうこうが問題になる映画ではないのでためらわずに書くけれども、これは始めから終わりまで長男の視点で語られ続ける映画だと思う。生命の起源から両親の記憶、そして二男との思い出。これらは全て長男の肉体のなかに潜在する記憶という意味では一緒なのである。
 「自分の人生を掴む」というのは、父親が息子たちの前で話す台詞である。その裏で、父親自身もまた自分の人生を掴もうと躍起になっている様子が描かれる。音楽家になる夢をあきらめた過去と、仕事がうまくいかない現状。過剰なまでに息子に抑圧的な態度を取るのは、彼の人生の続きを息子に託すからである。長男は、自分の人生を父の人生から切り分けようと、次第に反発を強めていく。
 だが自分の時間を掴むために幼い長男が試みるのは、結局二男を支配することでしかない。それ以外の術をまだ知り得ない彼は、しかし自分が父と全く同じ行動を取っていることに無自覚でいられない。愛する弟を傷つけることでしか父から逃れられない彼は、常に引き裂かれるような感覚を覚える。二男の死を思うとき、彼はその念をより一層強くしているのだろう。
 だが映画、つまり彼の記憶とされている映像を観れば、彼は父の想定する「人生」とは別の時間を、様々なところで見つけていることに気がつく。風に舞うカーテン、女性の足元を揺れるスカート、川に流された下着。あるいは特徴的な歩き方を真似てみたり、ターンテーブルに手をつっこんでレコードを変速してみたり。つまりここでの時間の認識とは、ある大きな唯一の時間を自分の元へと引き寄せるのではなく、あらゆる方向に向かう流れを受けながら自分がどのような表情を見せるかなのである。それに気が付いた時、彼は複数の時間が交錯する地平へと一気に開かれる。この複数の時間の交錯が、自分の編み上げた自分の時間であり、つまり言葉であり、フィクションである。河口で記憶のなかの人物と出会い、語り、別れながら、彼は自分の物語を自分の手で紡いでいることに気がつく。僕らが夢想するエデンの園には、生命の樹が深い永遠のなかに根をおろすのである。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20111016より抜粋