web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

ラップ論メモ3

 ヒップホップとラップは違う、ラップは単に歌唱法を指すに留まり、ヒップホップは文化全体の総称である、といった見解は、もう大分広まってきたんじゃないだろうか。この見解自体に全く異論はないが、するとラッパーというのは一体何なのだろうという疑問も浮かびそうではある。ラッパーはつまりラップをする人という意味だけれども、その割にはラップをすれば即ラッパーというわけではないらしい。ラッパーを名乗るということは、もっとヒップホップそのものに深くコミットしているようなニュアンスが込められている。
 例えば初めて日本で享受されたラップとは、英語のラップであった。ラップといえば未だにアメリカが本場であるかのようなイメージが持たれるほど、英語とラップの関係は深く結びついている。確かにラップは、言語の音声に音楽的な処理を加えることによって成り立つため、アメリカで先行しているそれを解体して分析する際に、言語の違いは大きな壁であるかのように思われていた。かつての日本語ロック論争が思い出されるが、おそらくこちらはそれ以上の困難を孕むように感じられただろう。
 結果から述べると、それはもうほとんど問題視されない状況にある。まず英語ラップが解体され、次に日本語そのものが解体され、最終的に日本語とラップを組み合わせることに成功する。今の日本語ラップは、話し言葉の徹底的な解体と再構築の結晶である。この作業の果てに残るものは、いうまでもなく個人的な身体そのものである。
 少し具体的に書くとこういうことになる。日本語は母音+子音で成り立つ50の音を使用すると思われているが、それは便宜的な理解であって、実際に厳密に口語を分析すれば、より豊富な音を持っていることに気付く。ひらがなを覚えたての頃、文字で音を表そうとするときの違和感を思い出せば納得しやすい話だろう。今の日本語ラップは、日常口語をそのレベルで分析し、微妙な差異を聞き分ける耳を駆使して、多彩なグルーヴを孕むリリックを書いている。そしてまた、これは個人の口語使用の癖まで視野に入れるため、仮に同じリリックでラップをしても、ラッパーによってグルーヴが異なってくるような代物になる。書き留められたリリックは、どこまでも個人的な楽譜だと言える。このような手続きを経ながらラップをするということは、元々体外にあるはずの言葉のひとつひとつを、丁寧に血肉化していく作業に他ならない。
 ヒップホップが文化であると言うとき、あるひとつの共同体が独占的に所有する類いの文化とは少し異なっている。この文化は、言葉を覚えるより先に個人の内に蓄えられた集合的な無意識から立ちあがる現象などではなく、自と他が意識的に一対一で向き合い続けることでようやく成り立つ。だから、アメリカのラップも、日本語ラップ、UKラップ、ラップ・フランセ、ダンスホール・レゲエ、その他まだまだ多くの言語で日夜行われているラップの、ひとつの技術的な方法論に過ぎない。レコードの音を解体し、ブレイクビーツの上で語りのグルーヴを展開する、というヒップホップ・ミュージックの基本的な態度自体、土地性に回収されない音楽と個人の関係を象徴しているように見える。話者の文脈に絡めとられない、都市の音楽。

おそらくラッパーとは、ラップをする人であり、ラップをし続ける人である。言葉と自分の間に連続と断絶を同時に見出し続け、その運動をダンスとして提出する。

◇土地性に括られない、文脈に絡めとられないとはいえ、ヒップホップの人たちって地元をレップしたり、ポリティカルなトピックやラッパー間のビーフがテーマになったりしますよね、という反論も予測される。けれどもこれは、ヒップホップというフレーム自体がそのどこからも自由であるために、逆説的に個人の問題を雄弁に謡い得ている、ということの証明でもある。そして、ラッパーが個人としての振る舞いを謡うということの倫理の問題も非常に重要な話題なのだけれど、これについてはまたいずれ整理してみるつもり。

http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20110710より抜粋