web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後5時半。膝から昇る寝息を聴く。

◇手を伸ばして届くか届かないかの距離に読みかけの本があったのだけれど、姿勢を変えられずに寝顔を眺める。

◇昨日の朝から息子に少しだけ咳と鼻水があり、念のため、いつも予防接種を受けている医院にかかった。万一のためにRSウイルスの検査もしてもらったけれど、とりあえずそれについては大丈夫そうで、抗ヒスタミン剤の入った薬をもらった。39度を超えるときは服用しない方が良いらしい。息子はここの医院の先生(雰囲気がキャシーベイツの人懐っこいときに似ている)が好きな様子。風邪気味なんですと訴える両親をよそに、診察時間中ずっと笑っていた。

◇なんだか、ブログの更新が隔週になってきた。そして水泳も隔週になってきた。一週間置きに水泳とブログがある感じなのだけれど、要するに今週は水泳に行ってない。
 なので先週の水泳報告。45分2000メートル。1分50メートルのペースを保ってフルで泳ぎ続けられる日も夢じゃない。まあ今週は泳がなかったんだけど。

◇雄叫びをあげながら寝返りに挑戦する息子は、しかしまだ要領がわからないでいる。風が吹けばぱたんとうつぶせになりそうな姿を見ながら、もどかしい気持ちで妻と笑う。
 息子が寝静まると、今度は妻が我が子のように見えて来る。

◇木曜日は映画版『ヒミズ』を観てきた。今回の映画化によって気がついたのだけれども、『ヒミズ』という作品は、今後も様々な人によって再解釈されていくのも面白いかもしれない。多義的な解釈を可能にする原作について、あるひとつの方向を持った物語として読み替えたのが、園子温版『ヒミズ』だった。

 それはさておき、とりあえず園版『ヒミズ』を一本の独立した映画として観ると、水にまつわるお話ということになる。主人公の少年は川辺に暮らして貸しボート屋を営み、その敷地内にブルーシートを張って生活しているのは、2011年の震災によって津波被害を受けた人々である。物語の重要なシーンでは、人物が雨に濡れ川に落ち泥にまみれるなど、とにかく執拗に水浸しの人々の映る映画となっている。
 主人公スミダは一生普通に暮らすことを願う中学生なのだが、その理由は不条理を感じずには居られない家庭環境にある。たまに顔を見せては金を無心して暴力を振るう父親と、男にだらしない母親。スミダがこの環境を「ありきたりの不幸話」と片付け、普通であることに執着するのは、その状況に甘んじて自堕落な生活を送ること、及びそんな両親への嫌悪だろう。
 また、彼は普通でありたいという願望とともに、もうひとつ重要な願いを口にしている。「誰からもジャマされず…」。彼は自らの人生について、常に誰かから暴力的に脅かされるように感じており、自分のあるべき普通の人生を他人に破壊されているのだと考える。ともすれば弱音を吐いてしまいかねない感情を抑え込めるように、意固地に「ありきたりの不幸話」と言い切るが、その裏側にはこの環境への激しい憎悪が浮かぶ。「たまたまクズの両親の元に生まれただけだ。俺は立派な大人になる」。だが、自分の人生をめちゃくちゃにする暴力に対し、衝動的反射的に、そして象徴的に抵抗を試みた結果、スミダは父親を死に至らしめてしまう。
 彼の人生を暴力的に歪める両親さえいなければ、彼の人生は彼のものとなるのだろうか。しかしスミダは、自分の人生のために父親の人生を奪ってもいる。暴力による干渉はスミダの最も嫌悪するところであるが、だが他でもない自分こそが、その最大の干渉を働く張本人なのである。そのことに充分自覚的なスミダは、自分の人生を自分のものとする夢を諦め、社会のために、それも最大の干渉を働いた者らしく、卑しく使うことを決意する。一年以内に悪いヤツを見つけ、一人殺す――。「オマケ人生」の始まりである。
 さて、映画はこのあらすじに震災の影を忍ばせようとしている。明らかに整合性を欠いた部分も多いが、しかしその試みは一定以上の成功を収めていると思う。暴力的な干渉を常に孕み続ける運命に対して、どのように対峙するか。それを模索するスミダに、震災という圧倒的な不条理に臨む態度をなぞらえることもできるだろう。その意味で、古谷実の『ヒミズ』は良い素材であることは間違いない。
 ネタバレしない範囲で言う。まずこの作品は、詩の朗読によって幕を開ける。ググってみると、どうやらヴィヨン『軽口のバラード』というものらしいのだけれど、とにかくこの詩はひたすら、わかるものとわからないものの区別を宣言していく。そのときスクリーンに映るのは、津波によって積み上げられたがれきの山。がれきのひとつひとつをよく見れば、確かにそれが倒壊した家屋の一部であったり、家電や自転車であったりと見分けることはできるのだけれども、しかし同時に沸き起こるのは、それが分かったところでどうだというのか、という気持ち。「何だってわかる、自分のこと以外なら」。スミダがこめかみにあてた拳銃の引き金を引くところで、その映像はぷつんと途切れる。
 これが本作の幕開けである。だが、この作品はそうした無力感から出発するとともに、反対側の極に、二階堂ふみ演じるチャザワというヒロインを置く。彼女は溌剌というよりも、もうほとんど異常とさえ言える好意をむき出しにしてスミダにつきまとい、希望ある方向へと導こうとする。スミダの物語を、チャザワがひっくり返そうとする図式を保ちながら、この物語は進んでいく。
 チャザワの好意は、当然スミダにとっては干渉である。だから彼女との接触には常に暴力が伴うことになるのだけれど、実はそのとき、用意されているアイテムがもうひとつある。それが水なのである。自と他の境目を曖昧にする水が、自と他を分割する暴力とともに描かれるとき、チャザワとスミダの間には性的な関係が結ばれる(最初に川辺で殴り合ったあと、びしょぬれのチャザワとスミダの間には、なんと虹が引かれている)。この水の暴力とは、言うまでもなくスクリーンの外に記憶される津波にもなぞらえられ、全く唐突に遭遇してしまう水の暴力とともに、スミダとチャザワはある方向に向かって突き進まざるを得なくなる。つまり――あまり野暮なことは言わないようにしたいので歯切れの悪い言い方になるけれど――セックスの先にあるものを、津波の先に見ようとする決意を感じられるラストシーンだった、ということだけ言っておく。チャザワがしまい込む「呪いの石」とは、怨念の託された水辺の石であり、つまりはこれからの子供のことなのだろう。

迷惑をかけずに生きようなんて傲慢。生きるってことは、迷惑をかけるってことですから。
松江哲明童貞。をプロデュース』より、カンパニー松尾の台詞)

◇ところで、好き嫌いを超えたところで語られる映画であることは間違いないが、とはいえ原作の解釈というレベルにおいては、園子温監督の読みはいささか単純明快な方向に引っ張り過ぎたようにも思う。以下に書き連ねることは、映画作品への評価ではない。そこから見える原作読解への評価である。
 古谷版との比較において、最も違うのは父親を殺すシーンだろう。園版においては、父親による具体的な暴力によって干渉の暴力性を描くが、古谷版においてそれはない。明らかにダメっぽい父親の姿は描かれるが、住田に暴力を振るっていたかどうかはわからない。というよりも、殺害シーンにおいては、住田の方から一方的に父親に向かってコンクリブロックが振り下ろされるのである。不慮の事故という形式を取る園版スミダは、古谷版住田とは別人物である。
 園版『ヒミズ』は、そこに主人公の迷いを挟むことによって、父親が居なくなったところで自分の人生が自分のものになるのではない、ということがあらかじめ見え隠れしている。震災後の日本の話としてアップデートする*1、という園監督の主張は、まさにこの部分に顕われているのだろう。これは、不安の立像たる「バケモノ」の扱いにも繋がって来る。園版において、「バケモノ」はただ単純にスミダに殺人を促す具体的人物としてしか顕われない。古谷版の「バケモノ」が、善悪の彼岸から運命を告げる不条理であったのとは大分異なり、むしろそのような存在を園版に見つけることはできないのである。これはつまり、住田よりも幾分周りの見えているスミダには、しかしその分、「バケモノ」との切実な対話をする権利を持たないことを意味する。簡単に言ってしまえば、その後の「悪いヤツを殺す」という理屈を持ち出すには、この状況は大分弱く、どう考えても警察に自首する方が賢く思われてしまう。
 なぜ古谷版住田が、あれほどまでに警察への自首を拒んだのか。単純化して言うならば、そのような道徳的な意味での罪を感じていないからである。住田の倫理においては、それは正当化されるべき行為であった。自分の人生を暴力的に歪める存在への、唯一の抵抗である。だが皮肉なことに、自分の人生をあるべき普通の形に戻し、自分のものとして宣言する行為は、クズを殺すということになってしまう。この状況に整理を付けるために設けられた、一年間の猶予つきオマケ人生とは、広く社会のために生きるという形式を取りながら、実は自分のために生きる手段を探るどうにかして見つけ出したい期間でもある。
 バケモノの言う「決まってるんだ」とは、住田が普通であるか否かを宣告するのではなく、ただ、最初から最後まで自分の人生は自分のものと「決まってる」ということである。あるべき普通の人生が、誰かの暴力によって歪められるのではなく、始めからそういった暴力ありきで運命は決まっている。古谷実ヒミズ』のラストが、一面ではどうしようもない感情を呼び起こすとともに、しかし同時にある種の清々しさをたたえているのは、このバケモノの囁きに希望を託すことも可能だからである。それは次作『シガテラ』において、「不幸になるまでがんばる」という台詞に明言される決意である。不幸になることがあらかじめ決まっていようとも、それをも織り込んだうえで、「がんばる」。無力感に陥るよりも先に、常に既に動かざるを得ないこの「しょうがなさ」は、どこまでもポジティヴなものではないだろうか。