web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後9時。風呂にこだまするあの攻防戦。

◇顔を濡らされた息子が、水面を叩いてやり返す。

◇離乳食には色々と段階があって、現在は初期の初期、日に一度だけおかゆを何口か飲み込む。息子は新しい食生活にはまだまだ慣れない様子で、おかゆを口に入れるたびに渋い顔をする。まだまだ子供だ。
 当然のことながら、母乳は母の体内で作られるけれど、おかゆは体の外で作らなければならない。子供と母の間に料理という作業が挟まることで、子供よりもむしろ親の側が子供との距離を自覚しようとする。離乳食や卒乳という言葉を、妻はさみしいと言う。そのさみしさは、子供の食生活への気遣いに引き継がれるのだと思う。

◇なんとなく腰が重く、水泳は来週火曜日の祝日に見送ることにする。

◇昨日は大谷能生×大和田俊之『ヒップホップ・ブックカフェ』というイベントへ(→http://snac.in/?p=1922)(http://d.hatena.ne.jp/adawho/20120311)。最終的にはヒップホップの話は少なめだったけれど、アフロ・フューチャリズムという独特の時間概念を、デューク・エリントンの『A Drum is a Woman』を軸に解説するというもので、かなり貴重な体験ができた。以下、このイベントから刺激されたことも含めてメモしておく。
 大和田俊之『アメリ音楽史』にも書かれていたけれど、公民権運動と宇宙開発史は全く同時期にあって、それがアフリカ系アメリカ人たちにちょっと独特なアイデンティティを形成させる。宇宙開発、というか宇宙人という他者に抱く幻想は、ここではないどこかへの願望を託す先である。自分を規定する時間軸を、毎日の生活を支配するこの時間(歴史)だけとするのではなく、同時に別のものを用意して、自分という存在を捉える視軸を複数化してしまう。昨夜の対談においては、自分を土星人と言い切るサン・ラから、ギリシャ人になろうとするマイケル・ジャクソン、あるいはバグパイプを持ったアンドレ3000や、バルカン星人のハンドジェスチャーかますファレル・ウィリアムスまで、彼らは一様に他者を「偽装」(大和田俊之『アメリ音楽史』)し、自分へのまなざしをいくつも用意するのだという(ただ、この偽装は自分の身体に無自覚だということではないと思っている。偽装することによって逆説的に立ち上がるのは、むしろ自分の身体そのものの自覚である。身体に裏切られる前提が担保されているからこそ、むしろ積極的に偽装することができたのではないだろうか)。
 大和田氏によれば、アフロ・フューチャリズムはフューチャリズム(→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E6%B4%BE)とは異なり、過去に未来を幻視する想像力のこと。これは個人的にはすごく自然に受け止められるのだけれども、乱暴に言ってしまえば、言語活動そのもののことではないかと思う。例えば昨日の出来事を思い出そうとするとき、僕らはそれをひとつの独立したエピソードとして捉えようとする。あるいは一本の映画を批評するときにひとつの見立てを作ったり、歴史を政治というテーマから読み解こうとするのも同様で、僕らはそのとき、そこにひとつのフィクションを練り上げる。一冊の書物が、どう考えても文字を一文字も変化させていないにも関わらず、あらゆる読解を許容せざるを得ないのは、つまり読む=書き換えを僕らが常にしているからである。アフロ・フューチャリズムを、僕はそういうフィクション化の力によるものと理解する。
 ヒップホップの四大要素といえば、DJイング、MCイング、ブレイキング、グラフィティだけれども、そう考えるとこれらは全て書き換え行為だということがよくわかる。自分にお構いなしにあらかじめ存在しているそれらを、自分の物語のなかの構成要素と見立て、書き換え、従属させていく。ラッパーとは、自分の物語の主人公の名前であり、彼らはラップすることでラッパーの姿を「偽装」するのだと思う。

◇それから、踊るという行為は、読む=書き換えと全く同じもので、聴くことと演奏することを同じ地平に見据えることだとも思う。ラップは、唇のダンスでもある。その意味において、踊る欲望を刺激しようともしない、鑑賞用のためだけになされるラップは、ラップではない。

SALU『IN MY SHOES』。聴いてるうちに、これはラップ曲というよりヴォーカル曲と言った方がしっくりくるような気がしてくる。ラップは、自らの身体を強く感じながら歌われるものだと思うからだ。自己と他者の区別を取り払おうとする歌唱とは逆のアプローチ。
 「字足らず字余りがグルーヴを生む」「複数秩序の単線上の叙述が訛りを生む」。いずれも、言葉を物質に変える際、つまり発声するときに、身体側の抵抗が引き起こす現象だろう。身体を徹底的にコントロールするのではなく、むしろコントロールしきれない部分とどのように折り合いをつけるか。その試行錯誤がグルーヴを生み、聴くものの身体を踊らせる。ラップは、彼自身の身体の痕跡をレコードの上に刻み付けることで、それを聴く他の誰かにラップを促す。これはリリックが基本的にはラッパー自身の手によって書かれ、彼自身にのみ歌われることを前提としていることとも密接に関わる話だと思う。
 さて、その視点で見ると、SALUが人類愛をテーマに巨視的な視点でリリックを書くということについても回答が出そうな気がする。SALUのラップは、身体をほぼ理想通りにコントロールしたところに成り立っている。それはラッパーのラップというよりも、優れたヴォーカリストの超絶技巧に近い。符割とブレスを自在に操って刻んでいくリズムは不安定な揺らぎを孕まず、つまり彼の身体は、彼にとっては完璧に制御可能なツールとなる。決して身体の側が彼の予想を裏切ることはない。だからこそ、SALUのリリックにおける主語はSALU本人から離れ、人類そのものにまで拡張することも出来るのである。

 ラップが切り開いてきた歌唱技術を、従来のポピュラー音楽の図式に当てはめて応用したという意味において、ひとまずは優れたヴォーカリストの誕生を喜ばずにはいられない。今後のSALUが、この圧倒的なスキルを持ってしてラップそれ自体の可能性をどんどん開拓するラッパーになっていくことを期待する。