web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前0時。秋の夜の虫の声。

◇ちょっと前までは、0時過ぎまで蝉が鳴いていたのに。

◇息子の2歳の誕生日に用意したプレゼントを、やたらと高いところにしまう。最近は両親の会話も聴いているし体力もあるので、半端なところに隠していたのでは、自力で発見されそうである。

◇大分久々のブログ更新だけれど、引っ越しは無事6月に済ませた。妻の実家から徒歩圏内になったこともあり、義父母に色々とお世話になる機会が増えた。息子は広くなった家を体育館もしくはダンスフロアと捉えて動き回り、近頃は割と複雑な動きもできる。口の動きも同様で、発音の種類も増えた。が、そっくりそのまま親の発音をマネすることは少なく、「ぎゅうにゅう」が「あんにゅう」といった具合に語頭が無理矢理「あ」に置き換わっていたり、「ハリー」というぬいぐるみを「あっしー」と母音残しで呼んだり、「トランプ」を「ぷーあん」と、音を前後逆にして業界人っぽい言い回しで気取ってみたり、そうかと思えば「とうちゃん」「かあちゃん」と呼ばせようとする両親のことは「ぱぱ」「まま」と呼んだりする。ちなみに息子に名前を尋ねると、自分の胸を誇らしげに叩きながら「でー」と言う。この自称に関しては、どこから来た言葉なのか皆目見当がつかない。
 目の前のものごとを言葉に変換するということは、つまり今目の前にはないことであっても言葉として目の前に出すこともできるようになった、ということである。夜寝付くまでの間、息子にその日一日の出来事を語らせるのが妻の特技で、かなりオリジナルな単語になったそれを、丁寧なインタビューで聞き出していく。そうして単語と単語が繋がって物語になったとき、息子は嬉しそうに興奮してみせる。

◇高校生ラップ甲子園第3回もBBOYPARK2013もいけずにひたすらyoutubeで確認するに留まったけれど、日本語ラップのシーンは、見えやすくアクセスしやすい形で拡大している。もちろん、現場=ライヴ会場以外のメディアで展開されるシーンっていうのは、やっぱり現場のそれとはズレたものと認識すべきで、ちょうどそれはテレビにおけるお笑いと演芸場における笑いが違ったシーンを形成していることと同じだと思う。ただ、特にツイッターサウンドクラウド以降、日本語ラップはそういう風に一枚岩で語れないようになってきているな、と思って、豊かさを喜ぶばかり。
(16分辺りから)
ヒップホップもまた文脈の世界であり、異なる文脈のなかに放り込まれても、いかに自分のスタイルを出力するかが問われる。メイクマネーは、そのスタイルウォーズのひとつの指標であるが、それを第一義とするあまり自分のスタイルを見失ってしまえば、たちまちセルアウトとされるのである。MCバトルの現場で負けても、そのスタイルでプロップスをあげる例などいくらでもある。その意味でも、現場以外の日本語ラップへのアクセスポイントは重要だと思う。

テレンス・マリックトゥ・ザ・ワンダー』。音楽とモノローグのうえを、映像と音が次々と切り替わる映画だった。多分、この映画の音声だけを切り取っても、全然いける。
 ところで、画面に映っているもののほとんどは動いている。もちろんこれは当然と言えば当然だけれど、『トゥ・ザ・ワンダー』に目立つのは、ひとつのシーンのなかに、異なった要因で動くものがいくつも平等に配置され続ける様子である。目まぐるしく移動する電車の外の風景と永遠にはしゃいでそうな車内の男女、ダンスに揺れるスカートと窓から入り込んだ風にゆれるカーテン、主要人物たちの会話と馬や牛やスクーターの発する音、そして、ストーリーのうえで何が起きようと、ほぼ全篇を通して吹き続ける風。人物やストーリー上の運動が連鎖して画面全体の動き=映像を決定するというよりも、それらの運動とは全く関係のない動きが常に目立つように映っている。このとき唐突に思い出したのは、前作『ツリー・オブ・ライフ』のラスト近くのシーンだった。http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20111016
 ひとりの男の記憶のなかに生命の起源までを含みこんで語られる『ツリー・オブ・ライフ』は、記憶のなかの登場人物を同一の映像のなかに収めて終わる。全てが男の物語になるべく、恣意性そのものをあからさまに提示して終わるわけだが、このすさまじく単線的な『ツリー・オブ・ライフ』と、『トゥ・ザ・ワンダー』のすさまじい錯綜は、ほとんど対になっているように思える。
 さて、今作のお話上のテーマに「愛」というのがあるけれど、仮にいま、ものすごくシンプルで、ほとんど馬鹿のような回答を用意するとしたら、ふたつ以上の異なるものをくっつけて考えるときに必要な、思索における接着剤のようなもの、と言えるかもしれない。途中、オルガ・キュリレンコが背中から倒れようとするところを、ベン・アフレックが何度も支えるっていう、むちゃくちゃに幸福なシーンがあるけれど、まさにあのふたりの動きの連なりが、例えば男女の間におけるひとつの「愛」の形だと観ることができる。だから反対に、子を失ったレイチェル・マクアダムズがベンアフレックをも失ったときに流れる映像は、全てが静止した家のなかの様子だったりする。全てが孤立して、何かの拍子に動き出す気配が全くない。
 物語的には、このレイチェル・マクアダムズが全てが静止した家に閉じ込められる恐ろしさがものすごく大切で、つまりこれをどのように超克すべきかっていうところがキーになっている。結局、オルガ・キュリレンコも子を失っているし、終わりにはベン・アフレックをも失うという意味で同じ状況に置かれるわけだが、しかし彼女が辿り着いたのは全く正反対に、幸福に満ちている。彼女のモノローグはなんと「ありがとう」で締めくくられたりするのだけれど、このとき映像は、ほとんど一枚の見事な写真のようなものが何度か連続する。風景の一瞬を切り取ったかのようなこのショットは、何かが動き出しそうな気配を常に孕み、いや目をこらせば木々の細かく震える様が見えているかもしれないし、被写体の奥から差し込むまばゆい光は常に動いているとも言える。つまり、全てが静止した家においては時間が停滞し続けるが、この見事な風景には一瞬が描かれ、常に既にどこまでも開かれている。「愛は永遠だ」というときの永遠とは、時間の停滞のことを意味しない。一瞬とイコールで結ばれる「永遠」のことである。

◇一寸先が闇かもわからない不安のなかで、でもそれでも未知なるものへ。っていうのが、そのまんま直球でタイトルになってるんだと思う。