web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

「サンプリングとパクリは違うのか」について、何度でも考える。

◇Funky Drummer。

◇サンプリングとパクリは、ある見方に立てば明確に区別されるし、また別の見方に立てば全然区別がつかないことになったりもする。なんとも穏当な結論だけれど、これらはつまり、サンプリングの定義というよりはむしろ、パクリという語の用法の問題なのだと思う。
 パクリを揶揄として使っているとき、つまりそれは、パクられ元の方がパクった側より価値の高いもの、と捉えられている。サンプリングは、オリジナルとシミュラークルの間にヒエラルキーを作っているわけではないので、両者は全然違うものだと言える。
 ただ、オリジナルとシミュラークルの間に上下関係がない故に、起こってしまうパクリというものもある。署名の問題、ようするに盗作の話。言い換えればそれは作家性に無頓着だということだけど、サンプリングは基本的にそうなわけで、あるいは盗作を「元のテクストを完全に無視すること」と言ってしまうと、いよいよそれはサンプリングの説明じみてくる。
 あるテクストのなかに位置づけられている言葉を、そこから抜き取って全く別のコンテクストのなかに放り込んでしまったら、元のテクストというのは完全に無視されてしまうことになる。引用とサンプリングは、その意味で認識的には別のことだと考えていい。それは、クリエイティヴィティというものを、作家の内面みたいなものとは完全に分けて考えている、ということでもある。作品は作品であって、作家の精神などではなく、手触りを持った物質である。愛とかリスペクトとかとは別次元のところで、まず作品は物質としての使命を持ち、だから自分の作品が誰かの作品のツールとなることも容易に想定できる。

◇ところでややこしい話だけれど、技術としての「サンプリング」は、引用を行う場合もある。全然ある。引用とサンプリングを認識として分かつのは、そのネタの使われている様子を確認してからの話である。元テクストの意味を踏襲するのか、完全に無視するのか。
 いずれにせよ、何度も繰り返される「サンプリングとパクリは違うのか論争」を眺めながら思うのは、ある表現・作品のアーカイヴがある程度蓄積されると、作品それ自体が「言葉」として使用されるようになる、ということ。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20140615より一部抜粋。