web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

クリストファー・ノーラン『インターステラー』

クリストファー・ノーランインターステラー』。宇宙とタイムトラベルと親子。

 ネタバレ前提で書きます。
 『2001年宇宙の旅』との関連から書くと、「人智」の範囲を広げるという『インターステラー』の姿勢は、そのままHALとモノリスを合体させた人工知能キャラクターに表われる。かつて表象(≒理解)可能か不可能かという意味において厳格に区別されていたHALとモノリスは、『インターステラー』においてはひとつの人工知能、つまり理解の内側の存在にされてしまう。あの異様な手触りを伴う直方体は、「映像化不可能」を示す記号としての役割をやめ、おそらく工学デザイン的な意味を担うに留まっているし、『インターステラー』に登場する人工知能たちは、人間の予測に反して叛乱を起こすHALと対照的に、どこまでも人間に忠実であり続ける。彼らを放っておいても「裏切り」という未曾有の事態は発生せず、つまり人智を超えることは、ここでは人工知能の発達とは無関係の出来事にされている。
 では、限界・不可能の突破=人智の拡張はどうやって可能になるのか。言い換えれば、モノリスが担っていた「映像の外側」は、『インターステラー』においては、どこに描かれているのだろうか。
 ひとつ、ここで言う「限界」は「重力の制御」のことであり、これの可否によって、人類が他惑星に移住できるかどうかが決定する。重力はつまり、光や、音や、そして時間という形を借りて表現されるが、劇中、こういった「重力」を自在にコントロールする人間の姿が描かれる。首を傾けてロケットを眺めるマシュー・マコノヒーは、重力に担保された視点を変調させ、宇宙空間に地球の環境音をかぶせてしまうデヴィッド・オイェロウォは、重力に左右されずに音を持ち運んでいる。その延長線上に置かれた父と娘の交信は、だから唐突なものでもなんでもなく、あり得べきものとなる。なぜなら、私たちはすでに、物語をつむぐことによって、時間=重力を自在に制御しているからだ。
 ところで、『2001年宇宙の旅』が示したもので最も重大なものは、モノリスの手触りだろう。猿の群れのなかに屹立するモノリスも、宇宙空間に浮かぶモノリスも、その周囲と溶け込むようで溶け込まず、異物としての違和感を常に纏っていた。モノリスだけが、その他の事物と異なった位相にあり、映画のなかに、ただただそのままとんと置かれてしまった立体である。それを理解の内側に置こうとするかどうかの議論は置いておいて、ひとまずそうした立体を描写してしまうのが『2001年宇宙の旅』である。ここを起点として議論を展開させ、モノリスに触れる道を決断したのが『インターステラー』なのではないかと思う。異なる位相・次元のものに、触れるということ*1
 例えば、モノリスとの「距離」は、映画とそれを観る者の「関係」に置き換えられたのだとも言える。5次元空間のなかに3次元空間が出現することも、23年分のメッセージを一気に受信するまでの流れを目撃することも、折り曲げた紙にペンを貫通させてワームホールを説明することも、全て作品の内側に丁寧に描かれた「外側」である。しかしにも関わらず、ともすれば作品に穴を開けてしまう強靭な「外側」の力に依存することなく、作品それ自体の自律性を高めていくことができたからこそ、『インターステラー』は異なる位相にあるはずの内側と外側の接触(の描写)に成功したのではないだろうか。接触を接触足らしめるのは、同一化の欲求ではなく、相互に自律しようとする欲望であるはずだからだ。

◇それにしても、23年分のメッセージの再生には嗚咽をこらえ切れなかった…。こういったヒューマンドラマとしての演出こそがこの作品の核であり、上に書いたように、作品の内部と外部をしっかり分け隔て、後の「接触」に必要な要素になっている。


http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20141208より、一部抜粋。

*1:もしかしたら、その挑戦はモノリスに触れようとして火達磨になった『2010年』以来かもしれない