web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後11時。スワッグな寝相の2歳児。

kohhのパフォーマンスを思い返しながら帰宅。妻と息子の寝顔を見に寝室に入ると、バンザイした両手を握り、肘を軽く曲げて、あの手つきをしていた。

◇高校生ラップ選手権を初めて生で観る。大体想像した通りだったので、次からは放送だけを楽しみにしても良いかもしれない。けれどライヴがかなり豪華なのは素晴らしく、そこはやっぱり相当大切。
 新木場に着くと、ニューエラに継ぐニューエラの大群。なんとなく、部活の大会の雰囲気を思い出した。高校生ラップ選手権が回を重ねる度、驚き、そして喜ぶことがあるんだけれど、それは日本のローカルシーンが、こんなにもたくさん育ちつつあるということ。実態としてはそれぞれは非常に小さなサークルだと思うんだけど、それを回収して観せる場所が用意されることで、こうした動きはどんどん活発化してるんじゃないだろうか。そして、こういう大事な仕事が、日本のバラエティ番組というコンテクストに配置されていることに、すごく嬉しくなる。選手紹介VTRとか、あんなのも含めてホントに第一線の仕事だと思う。

◇それにしても、大阪ってすごいところだな。漫才、ボクシング、そしてラップ。

◇ちょっと前のことになるけど、平日、仮病で仕事をサボって、家族三人、埼玉の鉄道博物館に行って来た。自宅から博物館までは1時間半強電車に揺られるのだけど、息子は既にその時点で嬉しいらしい。座席に座ると、はしゃぐでもなく騒ぐでもなく、車窓に映る景色に集中していた。
 鉄道博物館は相当に楽しく、息子の絵本の影響で車型に詳しくなった妻が、特にはしゃいでいた。昼食は駅弁を食べ、息子が食べたスーパーこまち弁当の箱は、壊さないように丁寧に持って帰ってきた。ちなみに、帰りの大宮のエキナカ施設には、スーパーこまちの子供用靴下があったので、それも買っている。

◇その後、一週間もしないうちに、スーパーこまちという名称はなくなった。秋田新幹線を走るE3系は終了し、全ての車両がE6系になったことに伴って、全てこまちになったのだという。

◇それから数日前には、除隊したばかりのMOMENTが、大阪大学に復学するまでの休みを利用して、東京に来ていた。この期間に、彼の東京初ライヴを観て、インタビューも行った。まだ日本語がスムーズに出てこない、と言っていたが、自分には的確な言葉で明晰に語れているように思えた。

◇ #FightClubJPのこと。→http://togetter.com/li/644276
 とりあえず、ゲームを始めたMOMENTが、第二弾で事実上の降板宣言をしたタイミングなので、これまでの雑感をメモしておく。こちら(→http://andoh3.hatenablog.com/entry/2014/03/18/175740)も踏まえたうえで。
 まず、FightClubJPという名前で始まったこの一連の動きは、インタビューでも言及されているように、下敷きにControlのKendrick Lamarのヴァースがある。Kendrickはこのなかで非常に重要なことを、少なくともふたつ行っており、MOMENTのアクションはそれを踏まえると、理解が早いと思う。

◇ひとつは「リアル」という言葉の意味を変えてしまった、ということ。kendric Lamarはこの曲のなかでビーフを仕掛け、世界中のヒップホップシーンのコンペティションを激化させてしまうのだが、そこで、彼はかつての東西抗争にも触れている。

EN: I'm Makaveli's offspring, I'm the king of New York
JA: おれはマキャベリの子供で、キングオブニューヨークだ
EN: King of the Coast, one hand, I juggle them both
JA: どちらの海岸も片手で転がすようになり、キングオブザコーストとなったんだ
(抜粋:http://ameblo.jp/clubcrunk/entry-11592470504.html

2パックとビギーを止揚して、かつてのビーフとは一線を画す立場に身を置いた。これが意味するところは何か。
 舌戦からスターを犠牲にしてしまった東西抗争は、ヒップホップ史上最大の悲劇と言われている。が、そのような言及がなされるとき、どうしてもそこに甘い感傷を覚えてしまうのは、「リアル」の意味を、ラップのトピックスと実生活が同じ直線上に並ぶことだと捉えているからではないか。
 ところが、実生活ではg.o.o.d kidだが、いざラップをさせればハルクのように変身してしまうKendrickは、ラップを別の位相の現実のなかに構築する。それでもなお、私達の生きている世界はたしかにこうなっていると思わせる「リアル」。そうした成熟した「リアル」が、Controlとともに拡大していくことになった。

◇もうひとつは、ビーフの役割を変えてしまったこと。Kendrickのヴァースについてはこのような捉え方がある。「名指しされなかったやつこそ、実はディスられてるんじゃないのか?」という。
 通常、ビーフが起きれば、一体今度は誰と誰が喧嘩してるのだろう、と捉えるものだが、しかしControlはそう捉えてもあまり意味をなさなかった。むしろ、新しいゲームボードを用意し、そこに乗るか乗らないか、全てのラッパーに踏み絵を迫るものになっていった。つまり、名指しされてるやつは既に新しいゲームボードに乗っている、と解釈できるのである。

◇世界中のラッパーがKendrickのControlに踏み絵を迫られるなか、日本語ラップは完全に別世界に居た。MOMENTはこれをガラパゴス化と呼ぶが、出来事として何が起こっているかは知っているのに、こちらとは別世界のこととして捉えられる状況になっていた。なぜ日本語ラップシーンはControlに反応できなかったのか。おそらくそれは、単に言語の壁だけが原因ではない。#FightClubJPは、まさにそうした状況への冷静な批評でもあった。
 日本語ラップシーンで競争が出来るのか。それが今回のテーマであり、MOMENTは何度も「これはディスではない」と言い続けている。また、彼自身のプロップス云々とは全く無関係のところで、彼はこれを必要としたのだと思う。インタビューのなかで語っていた「(ラップで)殺されてもいい」という言葉は、おそらく本気だったのではないか。そうでなければ、このまま沈黙を貫けば勝ち逃げ出来るという状況のなかで、わざわざ相手を褒めちぎるようなアンサーを出さない。#FightClubJPに湧くリスナーなどお構いなしに堂々と降板宣言をしてしまったMOMENTは、ラッパーとしてはあまりに誠実だっただろう。
 通常のビーフはよりプロップスを集めた方が勝ちになる。もし#FightClubJPが通常のビーフであれば、MOMENTは敗北したと考えられる。しかし、このゲームの動機を思い出してみれば、日本語ラップシーンの競争が可視化されたという時点で、一定以上の成功を収めたのではないだろうか。

◇しかし嫌な反応も観たし、それをあぶり出す装置としても、#FightClubJPタグは最高に便利だった。
 自分の生活圏内以外を全て別世界の出来事と捉えようとする態度は、差別も起こせば、生活保護バッシングもするし、公共という意識を根こそぎ奪っていく。仮に3.11のように、物理的な震動が誰彼構わず共有されることになれば、断絶が失われたことに焦ったやつから「全てが変った」と大騒ぎを始めるし、そんな純朴な彼らの安心のために、体の良い「つながり」という言葉が用意されて、改めて断絶が繰り返されるのである。そんな状況で、「リアル」は成熟できるはずもなく、物語は読むものとしての役割を放棄し、共感するものに成り下がった。
 日本語ラップがそんなものになるかどうかを決めるのは、各々の姿勢なのに。

◇ところで、そういえば映画の『ファイトクラブ』も、革命のゲームから降りるために「あるキャラ」を殺し、「恋人」と手をつなぎながらゲームの行く末を眺めて終わる。この恋人が、つまりHIPHOPなのだと考えたら、そうか。 #FightclubJP ってMOMENTにとってのそういう物語になったのかもしれない。

◇さらにところで、もし自分がこの一連のアクションに“#FightClubJP”以外の名前を付けるとしたら、“#海の向こうで戦争が始まる”にする。相当語呂が悪いけど。