web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午前8時。赤い電車のダンス。

くるり赤い電車』をかけて、唄いながら踊る息子を撮っていた。最近、やたらと好きらしい。

◇昨日はほんの少しだけ文フリ。残念ながらアラザル最新号は文フリの時期と合わせることができなかったため、バックナンバーのみの販売。ブースに行くと、監督とS根さんがライターのYさんを接客していた。
 家族で来ている手前、ほとんど買わないつもりで来ていたけれど、オノマトペ大臣氏と神野龍一氏が執筆している『カンサイソーカル1&2号』、republic1963氏渾身の婚活特集『奇刊クリルタイ7.0』、BLACK SMOKER RECORDSの特集をやっている『KLUSTER!』を購入。アラザルも頑張らんと。
 流通センターの会場での文フリは、実は初めて来た。なんだか懐かしい雰囲気を楽しみつつも、ベビーカーで来ている家族等も以前より増えたように感じる。ただ単に自分が家族で来ているからかもしれないけど。

◇会場までの行き来は、鉄オタの息子のために、行きは京浜急行赤い電車”で平和島駅、帰りは流通センター駅から東京モノレールを使った。人見知りで、外出時は驚くほど静かになる息子だが、しかし電車に乗っている最中だけは、視界に入った車両ひとつひとつのチェックで忙しくなる。山手線内から見える京浜東北線湘南新宿ライン京急線ですれ違う他の京急車両、モノレールの車窓に映った新幹線など、見つけるたびに毎回指差し確認をして、これは何線か、あるいは何系かと尋ねてくる。そんなこんなで大分満喫したのか、帰りの山手線内ではよく眠っていた。
 実はそのとき、父はサンライズ出雲を発見していたのだが、それは内緒にしておいた。

◇『アクト・オブ・キリング』。中心的な話題は陰惨極まりないのだけれど、根底にあるのは、この映画の主人公、虐殺の実行犯リーダーであるアンワル・コンゴの、映画との関わり方である。
 元々ダフ屋であった彼は、映画館周辺で映画券を売りつける傍ら、自身もハリウッド映画をこよなく愛していた。共産党主導のもとでハリウッド映画が禁止されると、しのぎを失った彼らは共産主義者の殺害を引き受ける。アンワルは、そんなさなかでさえ、殺害方法のヒントをギャング映画に求めるなど、徹底的に映画少年であり続けた。そして今、アンチ共産主義プロパガンダ映画という大義名分を伴って、自らの行った虐殺を公然と演じてみせるのである。
 本作は、この映画制作のドキュメンタリーとして、彼ら虐殺実行犯たちの「変化」を描く。ところで、本作の語られ方として、武勇伝として虐殺の様子を語っていたアンワルらが、映画制作を通じて罪の意識を訴えるようになっていく、というものがあるが、しかしはっきり言って、これは非常に安易で浅はかだと思う。アンワルや、彼と同じく虐殺を行ったアディらは、はっきりと「罪悪感とどのように向き合うか」を話題にしており、その対処の仕方について、昔から今までずっと模索しているのだ。つまりここで、アンワルたちが映画製作の話を受けた理由については、プロパガンダとは別のコンテクストの存在が明らかになってくるのである。彼が殺害される役を演じていた理由、そしてそれを孫に見せようとしていた理由などを考えてみれば、それは明白である。

 さて、動機はどうあれ、アンワルは罪悪感と向き合う方法を考え、映画制作という手段を取り、真実をありのままに晒すことを求めた。結果、彼の上に起きたことといえば、「嘔吐」であった。
 例えばこう考えてみる。アクト・オブ・キリングとは、アンワルが、ギャング映画を参照しながら行った虐殺行為のことである、と。そして本物の殺戮とは、実際の虐殺行為の「再現」のなかに立ち現われたものである、と。そのとき、行為にまとわりついていたあらゆるコンテクストは剥奪され、ただ不気味に、「行為」そのものがごろりとそこに転がっている。この、映画の最も贅沢な瞬間に戦慄するアンワルは、残酷なまでに裕福な映画体験を堪能している。このドキュメンタリーはそのまま、ある種の羨望にも似た余韻を残しながら、幕を閉じる。

◇しかしあの、まんま「嘔吐」なシーン観ながら、サルトル毛沢東のことをもうちょっと知っていたら、もっと面白く観れたかもしれない。