web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後9時。横寝をしている自分の影。

◇隣の部屋では、眠いけれどまだ寝たくなくて不機嫌な息子が、妻に動物折り紙をせがんでいる。難しくてできないよという妻の声と、難しくないよできるよ、と今にも泣き出しそうな声で励ます息子のやり取りが聴こえている。

しろくまが折れたらもう寝る、という約束で就寝時間を繰り下げたにも関わらず、どさくさに紛れてクレヨンを持ってきたらしい息子は、今度は絵を描いて欲しいという。アンパンマンを描いてくれたら寝る、鳩を描いてくれたら寝る、カラスを描いてくれたら寝る、とどんどん約束を引き延ばしていくので、妻はカラスを描き終えた時点で、とうとう私の居る寝室にやってきて、寝たふり作戦を強行した。本日三度目となるこの方法で、息子はようやく寝ることができたが、最後まで、先ほどまで遊んでいた部屋に戻りたいと懇願していた。息子が適切なタイミングで敬語を使っているのを初めて聴いた。
 就寝前こんな様子の日が2、3日続いているのだけれど、これはおそらく、息子の体調と関係があるのだろう。数日前に熱が出て、ほとんどもう回復しているように見えるけれど、やっぱりまだ本調子ではないのだと思う。いっしょに遊んでくれない妻や私への不満というよりはむしろ、睡魔や不快感といった不条理な生理への憤りなのである。泣き声と言葉が混ざり合った声を聴きながら、もう赤ん坊の頃のような泣き方をすることはないのだということも知った。

◇息子の様子を観ながらもうひとつ、自分の小さい頃の感覚が、嫌な記憶として、急に思い出されたりした。私もそのとき、確かにこれに似た泣き方をしていた。ただ、そういった事態に追い込まれることに、今もまだはっきりと恐怖できるくらい、かなり強烈なものであった。妻と息子の様子はある種の微笑ましさをたたえたものでもあり、それはつまりいずれ昇華できるものとして観ることができるのだけれども、私の記憶のなかのそれは、今もってまだ、徒労感とないまぜになった激しい憤りを噴出させる。
 しかし私は、こうした問題の未解決を、自分の未熟さだとは思わない。未解決の感情を一方に置きながら、その解決へ向かう者のことを考えること。息子の憤りに触れることと、妻の心情を想像すること。この一連の作業をこそ、成熟と考えていたりする。

◇Funky Drummer。

◇サンプリングとパクリは、ある見方に立てば明確に区別されるし、また別の見方に立てば全然区別がつかないことになったりもする。なんとも穏当な結論だけれど、これらはつまり、サンプリングの定義というよりはむしろ、パクリという語の用法の問題なのだと思う。
 パクリを揶揄として使っているとき、つまりそれは、パクられ元の方がパクった側より価値の高いもの、と捉えられている。サンプリングは、オリジナルとシミュラークルの間にヒエラルキーを作っているわけではないので、両者は全然違うものだと言える。
 ただ、オリジナルとシミュラークルの間に上下関係がない故に、起こってしまうパクリというものもある。署名の問題、ようするに盗作の話。言い換えればそれは作家性に無頓着だということだけど、サンプリングは基本的にそうなわけで、あるいは盗作を「元のテクストを完全に無視すること」と言ってしまうと、いよいよそれはサンプリングの説明じみてくる。
 あるテクストのなかに位置づけられている言葉を、そこから抜き取って全く別のコンテクストのなかに放り込んでしまったら、元のテクストというのは完全に無視されてしまうことになる。引用とサンプリングは、その意味で認識的には別のことだと考えていい。それは、クリエイティヴィティというものを、作家の内面みたいなものとは完全に分けて考えている、ということでもある。作品は作品であって、作家の精神などではなく、手触りを持った物質である。愛とかリスペクトとかとは別次元のところで、まず作品は物質としての使命を持ち、だから自分の作品が誰かの作品のツールとなることも容易に想定できる。

◇ところでややこしい話だけれど、技術としての「サンプリング」は、引用を行う場合もある。全然ある。引用とサンプリングを認識として分かつのは、そのネタの使われている様子を確認してからの話である。元テクストの意味を踏襲するのか、完全に無視するのか。
 いずれにせよ、何度も繰り返される「サンプリングとパクリは違うのか論争」を眺めながら思うのは、ある表現・作品のアーカイヴがある程度蓄積されると、作品それ自体が「言葉」として使用されるようになる、ということ。

◇トラックが、どこから切り取ってどのように使われても良いものとして制作されるように、その上に乗ったラップも、どこから切り取ってどのように使われても全く構わないとされている。もちろん、とはいえ、あらゆるリリックが断片的に書かれるわけではなく、テーマやストーリーといったベクトルを持ち、パンチラインという山場を迎えるためのドラマが演出されたりと、連続して書かれていたりする。しかしだからといって、自分のラップが断片的に切り取られることを嫌がるラッパーは居ないのではないだろうか。というか、ラップにとっては、テーマやストーリーよりもパンチラインの方が遥かに重要なのかもしれない。
 パンチラインは、前後のリリックの流れを断ち切ることが可能なほど、強度の突出したラインである。だから、ひとつのストーリーのなかにパンチラインを配置してドラマを演出しているのではなく、むしろ逆に、パンチラインを生み出すという都合上、テーマやストーリーが必要とされたと考えた方がいい。
 DJプレイのなかに登場するラップと、ライヴパフォーマンスとしてのラップは、ときにパンチラインかストーリーかという対立を起こすことがある。DJプレイのなかで切り刻まれ、断片的に扱われることを前提としたラップは、パンチラインがラップのストーリー中のどの位置に置かれようと、その価値を減ずることはない。しかしライヴパフォーマンス、特にMCバトル等においては、オーディエンスの最も盛り上がるポイントにパンチラインを効果的に配することが重要になる。大体、そのどちらに意識的なのかについては、音源の作り方に顕れるような気がする。