web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後3時。日差しに焦げる肌の音。

◇じりじりと、肌の焼けていく音が聴こえるような気がした。

◇今週末は息子の従兄弟たちが大集合していて、子守りに奔走していた。というか、妻の長姉の子供達は来週火曜まで居るので、妻と義父母にとってはまだまだ体力の消耗する日が続く。土曜日は近所の畑でブルーベリー狩りをして、日曜の今日はサマーナイトタマズーに行って来た。しかし甥っ子たちも大きくなったもんで、わんぱくな割にはひやっとすることが大分少なくなった気がする。騒がしいことに変わりはないけれど。
 息子は一番小さいので、従兄弟たちから一挙手一投足注目され、随分かわいがってもらっている。私も母方の実家に行くと息子とほぼ同じ立場だったので、いろいろと思い出すこともあった。そしてまた、末っ子を妻に持つ夫という意味で考えれば、今の私と当時の私の父は同じ立場にある。

◇今週頭は、妻と息子が、八王子時代のお友達の家にお邪魔した。その際、先週末の立川の花火大会は、前の家のすぐ近所の電器店の屋上からよく見えたということを聞いたそうだ。しかも、同日開催されていた八王子の花火大会も見えたということで、すさまじい穴場スポットの存在を、八王子在住の3年強、知らずに過ごしていたことになる。

◇穴場スポットを教えてくれたお友達と妻は、地域の子育て支援センターを通じて知り合ったのだが、同じくそこの利用者であった共通の知り合いが、旦那さんを過労死で亡くしてしまったそうだ。あらゆるものをすぐ背後に感覚しながら過ごすこと。

◇今週の火曜日辺りを境に、息子がいきなりおしっこ名人になってしまった。トイレトレーニング自体は始めてはいたものの、順調にトイレでおしっこをしてくれたのはほんの初めだけで、目新しさ、要はトイレに向かうというイベント性が無くなってからは、便座に跨がっても「出ない」の一点張り。慌てておむつを穿いて、そこで済ますという有様だった。それがいきなりズボンを脱ぎ、パンツを脱ぎ、便座に跨がってしゃーとやり始めたわけで、この中間の無さは一体なんなのか、妻と顔を見合わせた。
 ただ、どっち似という話ではないけれど、何事もなかったかのように笑顔でおしっこをする息子の姿を観ていると、会話の途中、中間を飛ばしていきなり違う話を始める妻のことを、そこに見出してみたくなる。

◇言葉は基本的に記録装置であり、その記録の仕方に私達の認識は委ねられているのだろう。
 口伝て、文字伝て、録音/録画、ネット的なアーカイヴ。前二つに関しては、語りと読みを同じ直線の上に捉えることが比較的容易、というか、作品の成立条件として、話者の読みと語りを中心に据えることが容易なのだと思うけれど、後二つに関しては、読みと語りが同じ直線上にあるのか、かなりわかりづらい。というか、それを直結させない必要に迫られる表現なのがこれらなのであり、語りのなかに話者の読み以外の要素が大きく占められている可能性を考えていく必要がある。
 その人の語りはその人の読みを反映するものだと受け取るには、置かれる環境があまりにもノイジーで、要するに作家性と非作家性の間で揺れ動いているものを指して作品と呼ばなければならないこともある。落語とヒップホップの決定的な違いはおそらくここにある筈だけれど、しかし、録音/録画技術以降の落語は絶対に変容しているはずだし、その意味では両者はある程度までは漸近することになると思う。

 と、寄席に行ってない状況では上のように捉えるしかなくて、この違いを明らかにするためにも、ちょっと行ってみるしかない。

◇動物園からの帰り道、眠くてもぐずることなく、しっかりした足取りで帰宅した息子は、もうわけのわからない無理難題をふっかける余力もないようで、スムーズに眠ってしまった。
 この一週間、私は仕事の方でちょっとした山場を迎えていたのだけれど、そのせいか、息子の成長がとても早いような気分になる。おしっこがいきなりできるようになっただけではなく、ボキャブラリーやレトリックが段々複雑になってきて、なんだか会話がしっかりしてきた気がする。しかしその分、自分の欲求みたいなものが別にあるはずなのに、それがなんなのか明確にならないために、不機嫌なまま色々な無理難題を両親にふっかける、ということが増えた。あまのじゃくな態度や、いちゃもんをつけたくなるような感覚は、きっと私達の日常生活のなかに普通に頻出する類と変わらない。

◇平日、妻の聞かせてくれる息子のエピソードを聞いていると、唐突に妻と出会う前の自分がフラッシュバックすることがあって、やたらと感傷的な気分になったりする。そういう感傷に浸ることを恥と思うくらい、着実に年を重ねられていることをありがたいと思う。