web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後6時。ごはんどきのしりとり。

◇息子が食事よりもしりとりに夢中になっていると、娘も一生懸命ゲームに入ってくる。ルールを理解しているわけではないので、とにかく自分が今言いたい単語を羅列しているようだった。あるいはそういうルールだと理解したのかもしれない。

◇娘は頭文字一文字だけで会話を成り立たせる。朝の支度がなかなか進まない息子に早くしなさいと急かすと、娘も、「に、は」と言う。兄もそれが「にいにい、はやく」と話しているのだと理解しているから「わかった」とか、あるいはばつが悪くて「しずかにしなさい」と答えたりする。
 どうしても上の子と比較してしまうのだが、息子のときはここまで会話が成り立っていなかったと思う。いや、おそらくこちらが話していることも理解しているし、息子が伝えたいことも伝えていたのだが、それは意図の伝達という目的がはっきりと前に出ていた。しかし娘の場合、会話のやり取りそのものを楽しんでいるように見える。娘の要求にこちらが沿えないときに、それを伝えると物分かりよく納得してくれるというのも、つまりそういうことなのだろう。こういうのは「女の子らしい」のか、それとも「下の子らしい」のか。

◇お気に入りのスーパーにいくという話になると、娘は必ずドキンちゃんの赤いポーチと猫の柄の赤いバッグを持ち、ミニーちゃんの尻尾を掴んで玄関に向かう。外出とおめかしをセットで捉えるという感覚がすでにあることに驚く。これはやはり「女の子らしい」のだろうか。

◇兄の方はというと、プラレールを器用につないで回転寿司レーンを作っている。近所の回転寿司店が閉店して以来、クレヨンと折り紙とセロテープを使って握り寿司を用意し、回転寿司の再現に熱中している。入店時にタッチパネル(もちろんこれも自作)の使い方を案内し、こちらの注文に合わせて寿司を流し、割引券やおもちゃのガチャガチャが当たるルーレットも回して、忙しそうに立ち回っている。娘と私は常連で、いつもあじとつぶ貝ばかり頼み、そしてほとんどいつも当たりくじを引く。
 いつも習い事で進級があるたびに回転寿司に行っていたのだが、次回からどこへ行けばいいだろうと、妻とふたり、子供が寝静まってから話した。

◇先週は久々に高熱に悩まされ、今もまだなんとなく胃がすっきりしない。アラザルの締め切りは過ぎている。仕事はまた来週から忙しくなるので、今週中になんとかしなければならない。

◇PSG現る。

◇少し前、BADHOPのラジオで出てきた「内なるJ」というフレーズがクリティカルで、日本語ラップヘッズたちはかなり楽しんでそのことを話題にした。J-pop的要素の強いラインが出てきてしまったとき、彼らは「内なるJが出ている」と指摘し合って審級するのだそうだ。
 この「J」が彼らの言う通りジャパンの「J」であれば、これは日本語ラップが孕む問題に終始する。もちろんそれは大前提なのだが、もうひとつ、この「内なるJ」の「J」というのは、「J-pop」などに表象される「ジャパン」であるだけでなく、「自分」とか「自己」の頭文字なのではないかと思ったりする。彼らが「内なるJが出てる」と言ってダメ出しをするとき、例えば自己陶酔の度合を強くし過ぎてトラックを無視してしまうような、自分という身体への意識を失う状態を避けているのかもしれない。「内なるJ」に支配されてしまう状態。
 日本語ラップは、日本と現代と美術の間に中黒を打たなければならないという、あの「悪い場所」という問題を必ず扱う。だからもちろん、今回の「内なるJ」を試しに「悪い場所」に置き換えて語ることは可能だろう。ただそれは日本で起こる表現のすべてにつきまとっている問題であり、日本語ラップはそのサンプルとしてよく機能するということに過ぎない。日本語ラップそのものを語るためには、やっぱり日本語「ラップ」のことも同時に考える必要がある。トラックという外在的な時間をどう自分の時間とするのか、というラッパーの意識に則して考えることで、ようやくそこに音楽と生活の問題を見出すことができるだろう。ラッパーの倫理は時間をどのように意識するか、というところにある。USラップを、影として日本に迫るアメリカとして見るだけではなく、自分の身体を忘却したいという欲求をあぶりだすための試金石として機能させることもできるはずだ。

◇トラックが要らないというのなら、それはラップであることをやめるだろう。当たり前だが、ラップをすることだけが、ラッパーをラッパーたらしめる。

◇BADHOPが「内なるJ出てるよ」と言い出したのと同様、かつて「チャックを上げなよ お前がはみ出てるよ」と指摘したのはPUNPEEだった。初のソロ作となる『MODERN TIMES』はまさに、自分と自分を取り巻く時間の間にどのような関係を切り結ぶかを考えた作品だと思う。ラッパーにとってのトラック論/トラックメイカーにとってのラップ論である。
 SOULSCREAMが1999年にイメージした『2018』を引き合いに出しながら、2017年に想像/創造する『2057』を考えることで、日本語ラップそのものの変化を語ることはできるだろう。しかし、『2018』を語る視点が今から未来を眺めるものであったのに対し、『MODERN TIMES』はそれを聴いている今を過去のものにしようとする、という違いに着目すると、それは日本語ラップの問題から、ラップミュージックの問題へと射程を広げることができる。

◇『MODERN TIMES』は思いっきり「自分がはみ出ている」作品だともいえるし、というか、はみ出る自分をどう扱うか、どういう時間の中に置くか、というのが極めて明瞭な作品だと思う。その意味においては「はみ出ている」という、さも自分では気づいていないような表現は適切ではなく、意図的に「はみ出させている」と言った方がいい。
(いつかつづく)