web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後2時。寝起きの娘の顰蹙を買う。

◇シャワーを浴びて体を拭いていると、着替えを用意していないことに気づいた。娘が昼寝をする寝室に着替えを取りにいくと、娘を起こしてしまった。不機嫌な声で、こないでよ、と告げられた。

◇風邪をひいている。喉の痛みだけがいつまでも残り、唾を飲み込むことすら嫌になるくらいなので、さすがに昨日、医者にかかった。おかげでだいぶ良くなってきた。

◇小学1年生ライフを忙しく過ごす息子は、最近は夜すぐに寝てしまう。たまに宿題をやる力が残っていないこともあり、そういうとき、翌朝は5時〜6時くらいに起きて宿題をすることにしている。
 今朝も5時半に起き、3つの宿題をこなして学校に行った。朝は不機嫌だし、朝食までにすべて終わらせなければいけないという焦りから、よくひとりで泣いている。私など、だったらやらずに学校に行けばいいのにと思ってしまい、つい提案してしまうのだが、息子はそれを聞くと余計に怒り出す。この生真面目さはおそらく妻に由来すると思う。私は宿題をしないで学校に行くような子どもだった。
 しかし息子は宿題の準備をしながら、筆箱がないと言っては怒って泣き、私がランドセルの奥から筆箱を出して見せると、今度は消しゴムがないと言っては怒って泣く。これは本当に学校で落としたようなので、私の消しゴムを渡しておいたのだが、こういうすぐにものを無くしたりする部分は私由来だろう。妻曰く「忘れ物や落とし物などした記憶がない」らしい。たしかにそういう子どももいる。
 忘れ物や落とし物をしてしまうくせに、そういう自分に対して憤りを覚えるという、極めて難儀な生真面目さを持っている息子は、しかし漢字や計算カードを毎日やっているうちに、苦手なものもだんだんと克服していく。できなかったことができるようになる快楽を、息子なりに感じていてくれればいいなと思う。
 図らずも朝起きて勉強をする習慣もついてきていて、息子としてはそれも少し自信につながっているようではあった。「おとうさん、また明日の朝も、いっしょに勉強したい」と言われた日には、私も徹夜明けの頭で息子の計算に付き合ってしまう。

◇いつまでも遊んでばっかりではいられないので、来年は仕事の方も忙しくする予定。というか実は、今年は息子が小学校に上がり、来年は娘が幼稚園に通い出すので、いよいよ遊んでくれる人が少なくなってしまう。
 妻と計画していることと言えば、中本に北極を食べに行くことくらい(近所に中本がないので、ずっとセブンのカップ麵で我慢していた。あれも再現性高くて優秀だけれども)。北極代に限らず、いろいろと資金的な準備もしなければならないし、ということで、宵越しの金は持たねえスタンスはついに今月で終わりになる。12月〜4月までの直近の資金繰りは計画したのだが、その間に5月以降5年分くらいの計画は練っておかなきゃいけない。
 ただ、時間を取って家族と過ごしながら、はじめて気付いたこともある。料理のレパートリーも少なく、部屋の掃除が苦手な自分にも、僭越ながらそれなりに特技があるということだった。今後もそれを生かすためには、やっぱりある程度家族と過ごす時間は死守しなければならない。
 できたら息子娘が小学生のうちは、勉強は充分見ておきたいし、家族をダシに、自分もいろいろな経験をしておきたい。仕事でいろいろな経験ができることは知っていたが、家庭でも本当に多くの経験ができるというのは、正直に言って、実際に体験してみなければ見えなかった。

◇昨今のニュースに触れると、この国において仕事と家庭の両取りというのはかなり贅沢なことのように見えるし、実際かなり困難な部分も多い。そして今後はより大変になるだろう。私は不況しか知らずに育ったが、貧しくなるというのはおそらくこういうことなのだと、身をもって実感している。
 すべてに無関心でいることが賢いふるまいであるような、そんなシニカルな態度が蔓延している。図体ばかりが大きく、中身がどこまでも幼稚なやつにはなりたくもないし、家族にもなって欲しくない。ただ、あまりにも貧しいこの環境では、無力感ばかりが大きくなり、いつシニカルな態度に転落するかわからない。そんな不安も抱えながら、しかしそれを不安と認識できていることに、いまのところ安堵はしている。自分の手の平を見つめる感じだ。

◇私は小学生の頃、全校生徒で避難訓練などをしているときに、よく手の平を眺めていた。みんなで同じ方向に向かって歩いていると、どこからどこまでが自分なのかわからなくなり、そういうとき、決まって私は手の平を見つめた。

◇KID FRESINO - Retarded。

 今年、まだ春になる前に雪の新宿を映したCoincidenceがすごかったけど、それの続編というか前日譚のような作品。ひたすら歩くフレシノ=ひたすらラップするフレシノの姿。今年いろいろと起きた日本のヒップホップミュージックシーンに絡めて考えても、とても実直で前向きな姿勢にも見えた。

◇もう9月のことになってしまうが、ゴードン・マッタ・クラーク展に行ってきたときのメモを残しておく。
 ストリートのものを美術館に置くことの不自然さをよく心得ていて、美術展というよりは博物館のような展示になっているところに、好感を持った。

◇展示自体はきわめてシンプルに、「裂け目」が一貫したテーマになっていた。
 パーテーションになっている布と布の間をくぐって、次の展示に向かうようになっていたりして、明解で見やすく、その意味ではマッタクラークな展示だった。
 冒頭がsplitの記録をはじめとする写真展示だけれども、見て進むうちに、ああ、あれは切断という行為より、その裂け目からどんなものを見せるかがメインだったんだろな、ということが段々とわかってくる。建築物のくり抜いたところから別の空間がいきなりどーんと登場する。別の用途や文脈をもっているものが一葉の写真に収まることで、複雑さ・異様さが現れる。ラップでいえば韻を踏むようなもので、文脈が乗り換えられる瞬間が記録されている。つまり裂け目。

◇映像作品についてもメモっておくと、普通にストーリーがしっかりあり、それも割としっかり映していくので、ひとつひとつ結構な見応えがある。『チャイナタウンの覗き見』も、クローズアップした窓に唐突に人々の生活感が現れたりする作品だけれども、普通にその様子を、映像のドラマで映しとっていて、映像作家だなあという印象。
 その流れの集大成が、やっぱり『fresh kill』だろう。『シンドラーのリスト』の赤いワンピースの女の子さながらに、ひとつの赤いトラックがスクラップされるまでの過程を追っていく。「トラック」と「ゴミ」というそれぞれ別の役割を持ったものの、ちょうど中間を描くことに躍起だったりする。
 そんな展示のストーリーを追っていった先に、ラストの『food』が連なる。これは綺麗なオチとも言えるが、しかし正直少し異質な印象もあった。もちろん、都市のバラバラな文脈を持った人々が集うレストラン=都市の裂け目、とか、本来たべものでなかったものがたべものになる過程とか、そういう意味では完全に一貫性はあるけれども、このfoodだけ、なんだかやたらとチャラい。言ってしまえば「フツーやん」てことなんだが、ここだけそれ以上の面白さが見つけられないままだ。