web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

午後7時。ひな人形をしまう。

◇ひな人形を出したばかりのときはみな大喜びで大歓迎だったが、しまうときはそっけないもんだった。

◇今度の会社は出社も退社も遅いので、定時あがりで大急ぎで帰っても、子どもたちが布団に入る時間にかかってしまう。そのタイミングで私が家に帰ると、眠りに落ちるか落ちないかだった子どもたちのテンションがまたぶり返し、お祭り騒ぎになってしまう。私は外で少し時間をつぶすことになる。だから平日、子どもたちと話すのはもっぱら朝になる。

◇帰宅後の私の楽しみは、一杯やりつつ、妻から子どもたちの話を聞くことだ。
 日中は、どうやら息子が妻の話相手をしているらしい。娘の食事の好き嫌いに悩む妻が、4月からの幼稚園生活を心配していると、息子はきっぱりと、大丈夫だよと言った。「自分で決めたことならできるんだよ」。息子にそういうところがあるので、その話には確かに説得力があるのだが、はたして。

◇兄の影響で、娘も習い事を始めたいらしい。兄は妹と連弾をしたいらしく、ピアノをおすすめするが、娘は日によって体操がやりたいと言ったり、空手がやりたいと言ったり、新体操がやりたいと言ったり、結構移り気だ。兄はおもちゃもおかしも、自分の欲しいものがなければ欲しがらないが、娘はとりあえず何かを欲しがる。習い事もまったくそんな感じになっている。色々ああでもないこうでもないと家族全員で話し合った結果、とりあえず春休みに、短期の水泳教室を体験してみることに決めた。水泳は水に顔をつけなければならないと知ったその日の晩、妻との入浴中に、娘は自主的に練習を申し出たのだった。

笑福亭松之助は、さんまの師匠であるということよりも、松鶴の弟弟子だという印象の方が強い。
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◇藝術という看板さえあれば、どんなことをやっても許されると思っている人たちがいる。この期に及んでイデアなるものを共有できると信じる人たちが言うならまだしも(それは単なる勉強不足だろうし)、現代美術においてこんな主張をしているのだから、今回の一件には非常に驚かされた。今回の一件というのは、会田誠氏の公開講座をめぐるあれである。
 まず今回の件に関して整理しなければならないが、女性が苦痛を覚えたのはたしかに会田誠氏の作品に触れた結果だが、訴えの矛先は講座の主催側である。この女性の主張に同意するかしないかについては別の議論が必要だろうが、そもそもこの訴え自体が、作品と鑑賞者の出会い方に対する訴えであるという点を見逃すわけにはいかない。

◇それはともかくとして、「すべての藝術作品には、普遍的で絶対的な美が宿っている」や「その絶対的な美を、すべての人間は平等に享受すべきである」といった主張に対し、それをある意味牧歌的だと捉えたうえで展開せざるを得ないのが、今日における表現である。20世紀までの、そして20世紀からの、あらゆる暴力を踏まえたうえでまだそんなことを言うのだとしたら、彼はきっと、人間というのを極めて限定的に捉えていくことになるだろう。「この作品をわかるやつだけが人間である」と。
 ぶっちゃけた話、件の女性を必要以上に激しく叩く輩は、結局そう考えているのだと私は思っている。作品によって苦痛を受けるというのは、よくあることだ。そして、苦痛は苦痛であり、そうした暴力が発生しないように努めるのが、いまのところ、私たちがギリギリ依って立つことのできる、わずかに残された‟人間性”である。

◇少しだけ話がそれるが、「人を傷つけない表現なんてない」という主張も、このときよく目にした。人を傷つけずに済む表現だっていくらでもある、というのがまず突っ込みどころなのだが、それはまあいいとして、人を傷つけてしまう表現があり、それをどのように展開すればいいのかについては、あらゆる議論が存在しているのは、日常生活を送るうえでの当然の認識だろう。公衆の面前でのヘイト表現から、職場のセクハラ・パワハラ問題、あるいは日常生活における会話の所作に至るまで、あらゆるレベルでこうした議論は起きている。これらの議論に触れようともせずに、「人を傷つける表現」を垂れ流しにして正義を主張する表現者様の、あからさまにナイーヴを気取った暴力に、ただただ辟易する。藝術だけが、人を傷つける表現の罪深さに真摯に向き合っているとでも言いたいのだろうか。そんなことを言う「表現者」という方々は、日常生活をどうやって送っているのだろうかと、本気で不思議に思う。

◇表現というのは尊い行為だろう。藝術は尊い行為によって成り立っている。しかし藝術外に存在するあらゆる営為にも、尊さはある。