web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

「しょうらいのゆめ 外伝パート2」の雑感

「夢」と「普通さ」って、ホントは全然別物だよねって話(最後の佐々木さんの発言)。

 『世界最速のインディアン』っていう映画を思い出した。これはいろんな意味ですんごくわかりやすい映画なんだけど、ここで描かれる主人公の「夢に向かう姿勢」が、僕はすんごくいいなあと思う(あ、映画的にどうなの?とか、ストーリーありえないってのは別の話ねw)。
 「夢」っていったときにちょっと注意しなきゃいけないのは、そこに何か理由とか意味とかを見出してしまってないか、ということ。この映画は、「夢」は欲求と同義であり、それ以上でも以下でもないってことを明確に示している。その欲求をかなえるためには様々なことで人に迷惑をかけるけど、その分いいふれあいだってあるよっていう話(いささか出来すぎっぽいけど)。つまり、「人の役に立つ仕事につきたい」とか「世の中のためにエコだよね」とかを「夢」なんて言っちゃうと、「実現できなかったらどうしよう」とか、「夢なんかみたってどーせ叶いっこねーよ」とかって言って絶望的な気持ちになってしまうと思う。
 んで、外伝パート2の最後の辺りにある、佐々木さんのソロパート(w)につなげると、この映画の主人公は、自分の有限性に耐える=自分の身の程を知る=「自分なんてこんなもんだ」と卑屈になることなく捉える(&自分の出来ることもわかる)ことができているので、ひねくれることもなくまっすぐに自分の欲求に挑んでいける。

 さて、以下は余談だけど、実はこっからが重要な問題だと思う・・・。
 この映画、主人公の壮年ライダー(実在のライダー、バート・マンローがモデル)を演じるのはアンソニー・ホプキンスレクター博士に絡めて言うと、レクター博士って殺人そのものに快楽を覚えてしまう快楽殺人者なのではなくて、カニバリストであるために、たまたま人を殺さなくてはならなくなってしまった人間なのである。
 『世界最速のインディアン』は、「インディアン(バイク)に乗って世界で最も速い世界を体感したい」という素朴な欲求を持ち、その欲求に突き進む道すがら、人に迷惑をかけたり人を幸せにしたりする映画。それはつまりまっとうな「他者との交流」だと思うんだけれども、それってレクター博士も全く同じ。
 まあ僕は古谷実原理主義者だから古谷作品について触れるけど、『シガテラ』にはそうしたことへの心配っていうのがぼんやりと現れている。自分が異常性愛者じゃなくてよかった、みたいな表現があって、その後、自分が今幸せになっていることへの喜びが綴られている。
 さて、欲求を素直に肯定したら、そりゃあ人に迷惑をかけるんだけど、その迷惑こそが他者との交流であるというのはわかった。でも、「欲求を肯定した途端、度を越えて迷惑なヤツになったらどうしよう問題」というのが出てくる。
 うーん・・・。

 さて、僕が今のところ思っているのは、『シガテラ』のラストとおんなじ答え。欲求ってのはキリがない。だから追求すればいくらでも追求できる。だけれども、僕はしない。なぜなら、今を「幸せ」だと捉えるからだ。だから、それ以上を望まない。(反対の可能性もある。それ以上を望まないようにするために、今を「幸せ」だと思うようにしているのかもしれない。)
 誰かに「本当はそれ違うよ」とかなんとか言われたって、僕は受け入れるつもりはない。たとえその人が言うことが論理的に正しくたって、僕は『自虐の詩』の幸江さんのように、無条件に今を肯定したい。だって、「幸せ」なんてどこかから与えられるものじゃなくて、自己暗示かけて勝ち取るものだと思ってるから。
 だから、「幸せ」がいつかなくなるかもしれなくても、それでも先手を打つことなんてせずに、“不幸のどん底に落ちるその直前まで”、幸せになりゃあいいんですよ(by『シガテラ』6巻の最もクるセリフから一部引用)

中盤のポストモダン

 はまた今度。もう眠いので。
 以下原稿のための文章にもなってないメモ。

 ベタに「ポストモダン」って単語を使って今回の流れの総論に向かってます。 
 みんなで共有できる夢を見て、いつかマジでそれが適ったらいいななんて思うことで社会が保たれていた時代があったそうな。そうすると、そこには夢の世界の一端を体験できる「非日常」と、退屈だけれどもこの先には美しい夢の実現があるという「日常」とが、それぞれ関連しつつも独立。コンサートホールが出来て、いわゆるクラシック的な音楽聴取のスタイルが出来上がったのもそんな時代らしい(渡辺裕『聴衆の誕生』)。
 そんな近代といわれる時期に「今日を大切に生きる」といったら、それは「よりよい明日につながるような今日を生きること」を差したんではなかろうか。んで、僕が今生きているのは、「非日常」と「日常」の境が曖昧な所だったりして、
そうすると具体的にどこからどこまでが「身の丈」かわからない。そんな時代に大きな物語を求めたって、セカイ系になるよな