親子関係
◇ちょっとこれは非常に書きづらいテーマなので書くかどうかはわからないけれど・・・今週末のLifeは親子関係(→http://www.tbsradio.jp/life/2008/01/post_48.html)。
なんで書きづらいのかって言うと、ちょっと僕の地雷なんすよねw
◇それでも下書きとして書く。
◇正直、僕にとって親は結構な愛憎の対象なんである。たまに自分の親について、もろ手を挙げて「大好き」「マジ感謝」とか言える人がいるけど、僕には絶対に無理。「マジ無理」。それは単に恥ずかしいからってわけではなく(もちろんそれもあるけれど)、「子供が大切」という大義名分に隠された親のエゴに、どうしても目が行ってしまうからだと思う。
いやしかし、僕は親の愛を文字通り“一身に受けて”育った。ひとりっこで何かと過保護に心配されて、それに対してはもちろん「うざったいなあ」と思うことも多々あるものの、そうしたこと自体は非常にありがたいと思う。そんな親の気持ちを知りつつも僕自身のやりたいことを優先させてしまうときなどは、本当に申し訳ない気持ちになる。
実際は親になったときでなければわからないことだとは思うんだけれど、でも僕は彼女に対する自分の気持ちを考えたとき、親がほんの些細なことで心配し、不安になってしまう気持ちというのが、ちょっと理解できる気がする。それを考えると、僕はなんと親不孝者だろうと、もう「(笑)」さえつけられずに思ってしまう。
こういった風に、僕は自分の親からの、まあ「愛なるもの」をひしひしと感じることが多いのだが、それでも僕は、親が僕にしてきたことに対して許せないでいるのも事実だ。親の行動自体もよくわかるし、そうなってしまう気持ちというのもわかるのだけれど、それでも「許せない」と思ってしまう。そして、僕が親や夫になったとき(あるいは彼氏であるときも)、そんなことは絶対にしてはならないとキツ〜く自分に課さなければならないと思っている。
◇それが何かというと、つまり最初に書いたことである。「子供を愛する」という大義名分をかかげて、己の不全感のよりどころを子供に求めてしまうことだったりする。
おそらく「子供を愛する」というのは、当人である親にとっては嘘偽りはまったくないことだろう。彼らは彼らの考えうる「愛」を子供に示している。しかし、それが「誠実」な姿勢かどうかには疑問があったりする。
誰かを愛すること=自分を愛するという関係性をこそ「愛」と呼ぶのかもしれないけれども、それは、こと子供に対しては一方的に与えられるものでなければならない。あるいは、恋人や夫婦同士であっても、「一方的に与えている」と二人が同時に思い合うことでなければならない*1。と思う。
いや、つまりベタな言い方をすれば「求めてはならない」ってヤツである。自分が愛を受けなかったことによる孤独はそりゃあとてつもなくキツイ。逆を言えば、子供という逃げ場を持たない存在にまで見返りを求めてしまう彼/彼女らの孤独を思うと、いたたまれない気持ちになる*2。しかし、そうであるならば尚更それを子供に求めてはいけないと思う。子供に対して愛を求めてしまい、そして子供が与えてくれないことを呪ってしまったならば(っていうか、子供は普通与える愛のなんたるかを知らないから、与えることができないのも当然ですw)、今度はその子供が不全感をひきずり、孤独を感じることになる。
そうした独善的に過ぎる行為が、「子供への愛」という言葉の裏で展開されているのではないかと思ってしまうわけ。
◇ちなみに(こっからは古谷実についてのメモですが)、「愛を求めてはならない」っていうのはあるんだけれど、今ってかなり求めることへの懐疑が可能だと思う。
おそらく昔(って言ってもいつかは知らないので、これは想像上の話)は、何かを追い求めることが美徳とされたんだろうと思う。もちろん「愛を求めてさすらう」なんてことも良いこととしてもてはやされたのかもしれない。でも、僕らはすでに「どこ行ってもおんなじっしょ」ってのが見えてきている。
『僕といっしょ』には、「人生やり直すリセットボタンがあったら押す?」っていう妄想があって、今と違った人生を思い描くシーンが何度か出てくる。最初「自分は連射っス!」と答えてたイトキンが、3巻では「押さない!!」と言うのである(ここは泣いたなあ)。そして、『稲中』では「もしかしたらオレは愛を与える側なのでは?」と気付く前野の姿が描かれている。古谷実の論理展開としてはこういう順番なのかもしれない。
誰かが愛を求めてあっちゃこっちゃ行ってしまうのなら、その出口がないことを覚悟した者から与えはじめるしかないんじゃないかと思ったりする*3。