web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

『誰が見てもひとでなし』1度目読了。

中原昌也ニートピア2010』所収。

◇学校の図書館にはなかったので、本屋で一気読み←4月19日。だから今手元にはない。中原昌也の他作品は未読。

◇妻が去る、何かを言って。その最後の一言らしき音声を聞き取れなかった。

◇わからないけど、「〜ってはなし」みたいにまとめる(?)と、上の一言のようなことだと思う。このことの途方もない悲しさや後悔のような、言葉に回収される前の感情を、暴力の妄想と自己嫌悪の妄想によって延々表現しようとしてる・・・のかな。

◇妻が何かを言って去った後、友人からスナフビデオに妻と似ている女性が出ていたということを聞く。スナフモノの消費者のような「人でなし」の気が知れないよねーみたいな思考の羅列が、いつのまにか「人でなし」である自分への悪態に変わり、そこから悔恨の念も垣間見える。スナフビデオの内容のように、妻をむしゃぶりつくし、最後に出した言葉らしきものが、残された最後の腕でのじゃんけんのようなものであって、妻は消えてしまう。みたいな。

◇途中、「現代に生きて働く人々を反映しなければ、小説とは呼べない(←うろ覚え)」みたいな表現があって、筆者中原昌也のドキュメントっぽい風味が出ている。
 で、このセリフの意味がよくわからない。人でなしの主人公(≒中原昌也)は働いていない。働かずに「生きて働いている現代の人々」を反映できるわけないから、「これは小説ではない」と言っているのだろうか。現代に生きて働いている人々を描かず、現代に生きて働かない人々を描いているから、これは「人でなしのはなし」=「小説でなし」だって。

◇主人公にとって妻は最初からむしゃぶりつく対象だったわけで、それでむしゃぶりつくしたら消えてしまう、という。はじめからそうなることはわかっていた。で、実際そうなってしまってさみしいですっていう感覚。そんなどうしようもない虚しさみたいなものもあるかも。

ニート的な日常がどうゆうものかわからないけれど、僕は勝手にアフロ田中を想像していて、あそこで描かれてるのは、最初からそうなることはわかってるけど、わかっていながらやるんだ、みたいな意志だと思う。だから余計なことを余計なこととして消費して、それなりに楽しければまあ満足っていう日常。自分の考えることは何の役にも立たないことっていうスタンスを持っているんじゃないかと思う。
 『誰が見ても人でなし』の妄想は、誰の、何の役にも立たない。誰よりも、その主人公が価値を見出さない。実質的にも思考の上でも非生産的で、すべて最初からわかりきっている。でも、妻がむしゃぶりつくされて消えてしまうことは、ただただ悲しい。後悔はしてるけど、でもそれ以外の選択肢もない。だって最初からわかってるから。

◇さて。2度目に読んでどこまで考えを改めるかです。記憶の中の作品を思い起こして書きました。