web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

脳内メモの放出〜忘れる前に〜

◇就職活動の面接の時、結構リスキーな自己PRを行っていると思った。三人面接官がいるうち、一人は伝わって、もう一人は全く伝わらず、最後の一人はグレーゾーンみたいなw。プレゼンのときの自分のパッケージングの仕方は他にもあるだろうと思うけれど、後々のことを考えると今、馬鹿がつくくらい正直にPRした方がいい気もする・・・てか、それ以外の方法がどうも取りにくい・・・。

◇今日はBRAINZ。一個前のエントリでも書いたけど、今回は中原昌也の『誰が見てもひとでなし』。その中にGeorgeBensonの『breezin'』が出てくるので、授業中みんなで黙して聞く。まともに聞いたのは初めてなんだけど、出だしがスチャダラの『彼方からの手紙』(日本語ラップの最高傑作のひとつだと思う)の元ネタだったとは。

◇えてる氏が2年生になり校舎が同じになったので、最近よく話しをする。日本語ヒップホップに関していろいろと教わるうちに、僕のこだわっている「不幸なことに不幸なことがなかった」というのが、僕自身捨てたと思っていた「洋楽エライ信仰」の名残りであることに気付く。向こうには「不幸」があってラップする必然性があるからエライ、みたいなヤツね。
 そんで、norikiyoとかseedaとかは向こうの真似事をしてムリにサグな日常を捏造してるんじゃなくて、自分たちの生活を、ラップという方法論を用いて語ってるだけだってことをやっと理解できるようになった。
 そんなかで紛らわしくないものとして、サイプレス上野とロベルト吉野がいると思う。特に『Bay Dream〜フロム課外授業〜』はほんっとにイイと思うし、爽やかさを伴った意志を感じる。
 とにかくビデオがいいので見てみて!!
 この団地的コミュニティの感覚と、自分たちのことを語っていくっていう感じがすごくいい。
 ただ、僕はこのビデオに「ここから始める感」を受け取り、距離を感じた。僕はそういう「ここから感」には、「ここからやってくぜ・・・って言ったはいいけど一体何を?」みたいな反応をしてしまう。僕にとっての「いま・ここ」という現在は、ものすごく価値があるってわけでも、逆に価値がないわけでもない。価値を見出さなきゃいけないわけでもないし、価値あるものにしていこうというつもりもない。つまり、ほんとに「ただそこにあるだけ」なのだ。
 例えば深夜のファミレスでグダグダしているときに、「お前らのやってるそーゆーことは社会的に価値がないんだ!」と言われたとする。それに対し、「いやまったくその通りです」と諸手を上げて賛同できる感覚を僕は持っていて、価値を逆転させようとは思っていない。ただ、「社会的な価値はない。だが感情はある」というのも事実で、サイプレス上野とロベルト吉野の「ここから感」はまさにそこだと思ったりする。
 えてる氏が言っていた。「ロックには、まだ精神的豊かさの探求みたいなところがあったと思う。だからヒッピーとかスピリチュアルみたいなものにも行く。けれど、ヒップホップの精神的豊かさはあらかじめ担保されていて、あとは物質的豊かさとしてメイクマネーになる」。言われて見ればたしかに。
 じゃあ、日本でヒップホップをやっていくときには、コンビニとスーパーで彩られる日常を豊かに楽しむ視点を語ることができるのではないだろうか・・・・ということが「ここから」だったりするんだと思う。
 僕はそれに対してそうだと思うと同時に、またちょっと違う感覚も持っているんだけど、それがまだ不明瞭。

◇ブログって「自分の城」なわけで、すごく適当なことも暴論も書けたりする。なんでそんなこと公開するの?って疑問に対して、僕はこう考える。
 「自分の城」を「自分の城」たらしめるためには、周囲にもここが「自分の城」であることを公言しなければならない。その公言の効果を持つものが、適当・ぶっちゃけ・暴論なんだと思う。

◇あとなんだっけ。書きたいことあったと思うんだけど忘れちゃった。ヒップホップに関してはまだまだ書きたい話題がある。書かないとたまっちゃうよ〜。