web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

近藤久志/ノイズ/中原昌也。それとなんかのためのメモ。

◇批評誌『アラザル』より。先ほど授業中に、近藤久志『chelfitschのこと』を読了。いや、ほんっとに面白かったし、興奮した。
 chelfitschはおろか、岡田利規もまったく知らないので、内容のことはわからない。だから批評文として見ることしかできないんだけど、でも素晴らしいと断言しちゃう理由は、まず「chelfitsch/岡田利規が何をしようとしてるのか」「それがどのレベルで成し遂げられている/成し遂げられようとしているのか」という基本的なことが丁寧に述べられているという点。これ当たり前でしょって言うかもしんないけど、すんごくここを端折る人が多いのが事実(僕も端折り気味*1・・・汗汗)。なんで端折るんだろうね。まあ、わざわざ書かないっていうのもあるだろうし、ついつい自分本位になってしまうっていうのもあるんだろうけど、単純に、いろんな意味で「難しいから」なのかもしんない。
 それから、興奮したのは、「「記述」の中から、またもう一度ノイジーでリアルな身体を生成する」っていうのが、批評を考える上でのひとつの視点をも提供しているように思えてくるってところ。そんな批評的態度みたいなものはこの文章の主題にはなっていないけれど、批評に対する近藤さんの意識が反映されてると思う。
 批評は、作品があって、それを語るってこと。考え方によっては作品というノイジーなものを「記述」として抽出するっていう風に捉えることもできる。それはあくまでもノイジーな作品を整理するためのひとつの手段。だから批評だけで作品を語ることができないのは当たり前。
 この批評に『chelfitschのこと』というなんとも曖昧なタイトルがついているのは、近藤さんの、chelfitschの全てを語りたいけど、でもchelfitschはここで語りつくせないノイズとリアルさを持ってるっていう、批評という「記述」に対する違和感が、曖昧に「chelfitschのこと書きましたけど・・・」っていう雰囲気を生み出してるんだろうなあって気がする。

◇こっからお決まりの批評観みたいな話しになるけど、批評を読み終えてからまた作品を読むと「なるほど、確かにそう見ると面白いね」っていうのがあったりして、そこから作品への理解と作品の精神(?みたいなもの)を突き詰めていくっていうのはある。じゃあなんでそれをまた作品で書くの?っていう話になったりして、それはもう単純に、ノイズこそがリアルだからでしょって思う。

◇で、中原昌也なんだけど、やっぱあれってノイズだと思う。
 例えばその作品にテーマとか目的みたいなものがあると、批評ってしやすい。その目的に向かって、それが成功してるかどうかが基準だから優劣で語れるし。でも、中原昌也の作品はそういう目的自体ないから、ほんっとにノイズにまみれてると思うし、それによって湧き上がる感情のみがそこにあると思う。その「感情を湧き起こす」っていうのを目的にして、その方法を上手下手で批評することができるとは思うけど、それは作家の視点に立つと完全にズレてるし、やっぱそう思うと「小説のことは小説家にしかわからない」っていうのは事実の一側面だと思う。
 でも、ここで「小説のことは、ホントは小説家にもわからない」っていう立場をとると、そこに批評の可能性も出てくる。そもそも作品だって、ノイズにまみれた世界を作者っていう側面で切り取って表現するのだから、ノイズのフィルタリングが起きてる。んで、作品は、作品として表現された瞬間からまた世界に放たれて、世界を構成するものの一部になるわけで、新たなノイズを獲得することになる。新たなノイズっていうのは、そこに全く違う読みをする他者がいるっていうこと。とすると、批評って作品にノイズをくっつける作業なのかも。

◇いろいろと脱線するよねw。アラザル所収の原稿はまだ近藤さんのしか読んでないです。

◇ついでに。
 「愛してる」って言葉に自分の気持ちを載せることはできないわけで、その言葉にどれだけのリアリティを与えられるかっていうのが表現だと思う。んで、その表現を受け取るときの作業が批評。

◇                                                         

◆                                                                                                               


「君は絶対だ。僕がそう決めた。僕は僕を信じない。君を信じる。」
――僕といっしょ
「絶対は誰とも共有できない。君とも共有できない。」
――詩がてら
「それでも」
――古谷実

◇例えばこうやって並べると、いろいろとイメージを膨らませる幅が出来る。これを整理することもできるわけで、『僕といっしょ』と『シガテラ』に連続する古谷実の問題意識を、こうやってアフォリズム形式の要約で連続させ、そこに無季自由律(?)風の三行詩を、僕安東三の古谷実への距離感として挟み込んでみた。
 まずこういった短い文章を読むときって、行間に作者の意図を汲み取らせるような視点が、なぜか僕らには備わっている。だからその行間の部分に、古谷実の具体的な作品名を挟んで、作品と関連付けた連想ができるように仕掛けておく。どちらも単独で読むとイメージの喚起は乏しい。けれども二つ抱き合わせにしてぽんと出すと、それぞれ単独で使われるときとは異なるイメージが喚起される。
 やったことはたったこれだけだけれども、今まで僕が書いてきた古谷実論とは、読後の手触りがだいぶ違う。言葉の使い方が違うって言った方がいいかも。まあね、感情を喚起できるようなノイズ含みのイメージをどこまでコントロールできてるかは主観的になっちゃってわからないけれど、僕がここで言いたいのは、なぜか僕らはイメージの片鱗をいくつか放ることで、何かしらの感情が喚起できるようになってるんだってこと。
 つまり、これはヒップホップの話です。

*1:いや、てか、端折るも何も、書きたいっていうパッションだけで書くとこういう結果になっちゃうんだよねえ。自分を意識的にカッコに括らないと、こういう失態を演じることになります