web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

結局、ソフィア・コッポラは童貞を卒業できたの?よくわからないんですけど・・・

◇あ、ソフィア・コッポラが女性だっていうの知ってますからね。

◇『ヴァージン・スーサイズ』と『ロスト・イン・トランスレーション』。両方とも閉塞感の作品て感じがする。前者は小さな町で一挙手一投足注目される美人姉妹のお話で、後者は匿名の街東京で「結婚」と「世界的映画スター」っていう状況からつかの間の逃避を果たすお話。

◇童貞は、世界と自己を区別し、その上で自己の中にとどまろうとすること。んで、処女は、世界と自己の区別すらなく、何の拘束も受けずに行動すること。とすると、閉塞感とは、童貞にとってはその出発点であり、処女にとってはまさに終わろうとする瞬間。そういう気がする。
 『ヴァージン・スーサイズ』は、タイトルの通り処女のお話で、『ロスト・イン・トランスレーション』はやっぱり童貞のお話なんだよなって思う。処女が終わって、童貞の季節が始まるっていう流れがこの2作品の間にある感じ。

◇「童貞を捨てる」っていうのは、閉塞感を自ら選び取るっていうことで、つまりそれは「閉塞感に耐える方法を手に入れる瞬間」でもあるんじゃないかと思う。例えばそもそも童貞っていうのは、「ここではないどこか」を夢想する存在。「ここ」とはつまり童貞である自分で、「どこか」とは、まだ見ぬ女性。だから、初めてのセックスは、「ここ」と「どこか」を連結するってことになる。
 今日的に発想すると、童貞であっても、僕らはセックスがどういうものなのかを知っている。そんなにいいものでないらしいことまで知っている。そんな状況下で初めてのセックスをするというのは、やっぱり既知のものに入り込んでいくことになってしまう。つまり、セックスを経験することで「どこか」がなくなってしまうってことが、童貞にとって恐ろしいことだったりする。
 『ロスト・イン・トランスレーション』は、閉塞感に耐え切れない中年の童貞既婚男性(ビル・マーレイ)と童貞新妻(スカーレット・ヨハンソン)が恋に落ちるさまを描いているんだけど、ここでいう閉塞感とは、つまり二人にとってそれぞれの結婚生活(他者と同期して生きていくこと)であり、ビル・マーレイは有名人であるという状況(映画スターの役)だったりして、エキゾチックな匿名の街「東京」が二人につかの間の開放感を与える。
 正直、「いつか終わる」ってせつなさは『さらば冬のかもめ』に負けてるし、「もしかしたらもしかするかも」っていう一瞬の期待と余韻なんかも、そんなには強度がなかった。でも面白いところがあって、ラストシーンで最後の別れをしたあと、もう一度振り返るのはスカーレット・ヨハンソンだってところ。

◇男の恋は“名前をつけて保存”。女の恋は“上書き保存”*1
 でも、『ロスト・イン・トランスレーション』では、女も“名前をつけて保存”する感じだし、もしかしたら男の方は保存すらしないかもしれない感じもちょっとだけ出てる。でも、ここで描かれた恋愛はもうちょっと密度がありそう。そこがまさによくわからないところ。

◇例えば、既婚男性が女子大生つかまえて、女子大生が本気になっちゃってっていうパターン――ちなみにこういう男を僕は「店長」と呼んでいるんですが*2w、「店長」ってホントに自分の「青春(笑)」がなくなっていくことへの恐怖から若いコに手出したりして、実はそのコ自身を好きなわけじゃないっていうのはよくあることだと思うんだけど、『ロスト・イン・トランスレーション』のビル・マーレイは「店長」とはちょっと違うところがある。スカーレット・ヨハンソンとセックスしようとしないってのがそうで、ちょっとプラトニックな感じがまさに童貞w。だけど、最後の別れのあと、振り返りもせずに他人になってしまっている。
 結局「店長」を好きになったんだけど、女の子側からはそうだとは思えないっていう映画なのか、それともビル・マーレイは「店長」ではなくて、ホントにスカーレット・ヨハンソンのことが好きで、それはもうちょっとオトナにならないと僕にはわからない感覚なのか・・・。誰か教えて!!

◇ただ、童貞視点でみると、どうやらビル・マーレイは童貞を捨てたっぽい感じがある。最後はとってもさわやか。
 童貞を捨てることは非常に恐ろしいことではあるんだけれど、捨ててみると景色は一変、閉塞していると思っていたひとつひとつが突然輝きだすっていうw。諦めて閉塞したものの中でとどまることを誓ったら、突然解放感に満ち始めるっていう状況。解放感って、実は閉塞の一種なんじゃなのかもって。

*1:これ初めてネットで見たとき笑ったw

*2:なぜかというと、「バイトの子に手を出すから」っていうことですw