web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

ぐるりびとマス決EPメモ

◇新百合映画祭にて『ぐるりのこと』。リリーフランキーの演技が沁みた。てか、演技っていうより素に近い気がする。自分自身を役の中にきちんと投影させるってーか体重乗せる感じ。反対に木村多江の不器用な演技も、不器用な女性っぽい感じになっててバランスよかったです。

◇反対に、昨日観た『おくりびと』は、もっくんの入り込む演技はさすが。
 死と食の対比が効いてて、グルメ映画と考えていいと思う。『かもめ食堂*1もそうだったけど、おいしいものを描いて際立たせるために、とっても静かなものを用意するっていう手法があるんだね。考えたら『孤独のグルメ』もそうだし。
 それにしても、広末涼子の媚びるような笑顔がいやだ・・・。

◇んでもって、とある方から教わったこれがまたスゴイ。
 『オナニーマスター黒沢』→http://passionate.b.ribbon.to/onamas1.htm
 ラノベの原作があることを知らず、途中まで絵がうまくてちょっとセンスがあるだけの中学生が、妄想片手にウェブにアップした自己完結作品だと思って読んでたんだけど、途中からいきなり加速してびっくりした。
 過去を清算する決意を、できた側とできなかった側の両方から描いて、前半をベタに喜んでる読者のくだらなさを優しく導こうとする作者の愛情に涙する。

決断主義を誰か教えてください→http://www.tokyo-np.co.jp/book/shohyo/shohyo2008083101.html。てか、決断主義と「大人になること」との違いがわかりません。むしろ違いは全然なくて、わざわざ決断主義と名づけなければならないほど、「大人になること」を拒否してきた過去があるってことなのでしょうか・・・。
 とりあえず90年代っていうとダウンタウンスチャダラパー古谷実に代表される、誠実でストイックなシニシズムっていうのが僕(84年生まれ)のイメージなので、そっから考えるしかない。

◇たしかに『ヒミズ』→『シガテラ』の間には、90年代とゼロ年代の線引きがある気はしますね。
 『稲中』において、「前もって笑われる存在になることで、誰かに笑われても傷つかずに済む」っていうのは、自分の予測の中に全て収めておこうとする態度。本当に怖いことっていうのは、予測がつかないことだから、未曾有の出来事を体験する前に、先に自分の守るべきものを手放しておく。これはこのまま、『シガテラ』の荻野くんが「付き合っている二人の間に何か不幸が起きる前に、先に別れてしまおう」と考えるところまで共通してる*2
 けど、荻野くんは不安と隣り合わせに生きていくことを決意する。それはやっぱり『ヒミズ』を間に挟んでいるからで、全てを先回りして予測の中に収めておこうとすると、最終的に結論はひとつしかないわけで、それ以外を選ぶなら、予測がつかない不安な日々を選択し、怯えながら日々生きていくことだったりする。

◇窮屈そうに聞こえるけど、実はこれとっても自由なんだよっていう作品が、古川日出男の『サマーバケーションEP』。
 何を信じればいいかわからなくなったら、みんな色々と探し始める。とにかく絶対的なものが欲しいって言うわけだけど、よくよく聴いてみるとそれは「条件付の絶対」だったりする。その条件っていうのは、「自分の醜いところを覆い隠すことができるような」絶対っていうもの。
 だけど皮肉なことに、醜い部分を持っている自分そのもの=物理的な身体そのものが、実は絶対であるっていうw。でもそんな否定したくなるような自分を、しぶしぶ肯定していくことが、実はこんなにピースフルなんだっていうのがこの作品全編に溢れてる。
 信仰ってそういうものかと。

◇物理的な身体を肯定する・・・つまり孤独を受け入れるってこと。

 孤独って本来こういうことだよって、くまに教えてもらえます。宇多田ヒカルってスゴイ詞書くね。ひとりっこだっけ?幼児の孤独って全部が満ち足りてる世界。

*1:ちなみに、『めがね』的ロハスは鼻につきますね。嫌いです。関係ないけどw

*2:観たことないけど、エヴァ的ひきこもりってこういうことでしょ?