web版:ラッパー宣言(仮)

ビートでバウンス 唇がダンス

松本人志の笑いについてのメモ

松本人志の「充電」発言があったとか。なんとなく松本人志の笑いに対する行動・姿勢を走り書き。

◇批評家の褒める作品が一般的にはあまり評価されないという問題が起こりがちな批評行為。松本人志はテレビを通して鑑賞者の批評能力も同時に高めてきた。例えばアメリカ人を笑わせようって企画は、そんな流れにあった気がするんだけど、笑いの多様性を肯定し続ける松本にとって、それは本気で攻め入るつもりはなかったような印象を受ける。日本において、自身の懸念よりも容易く天下統一を果たしてしまったことへの焦りがあって、その外側を見ることによって安心しようとしていたような気さえする。

◇彼の主張は「百人いれば百人とも笑いのツボは違う。全員に受けようとするとつまらなくなる」っていうもの。ゴールデンタイムのトーク番組を数本持つ一方で、しかし『ガキの使いやあらへんで』というテレビを通じた笑いの実験場は残しておいた。あくまであそこは彼の笑いの実験場であったけれど、でもそこで発明した『笑ってはいけないシリーズ』は様々な位相に通用する高い感性度を持っていたように思う。
 笑いって、予測の外側から来た情報の処理方法と物凄く深い関わりがある。だから笑いを追及していくと「予測外」の面積がどんどん小さくなっていく。ギャグマンガ家や芸人が精神に異常をきたすことがあるのはそのためだったりもするわけで、昨日やったネタはもう使えない先細りの道を歩き続けなければならなくなる。しかし『笑ってはいけないシリーズ』は、「笑ってはいけない」という緊張を強いることによって、予測する情報の方を狭める。様々なことが予測の外側に出ていくから、未知の出来事は無数に広がっていく。
 『笑ってはいけないシリーズ』のプロトタイプは『七変化シリーズ』だったりもするわけだけど、それをマスレベルに移項しても可能だっていうことを証明した。

◇さて、この大成功は「解の公式」みたいなもので、どのような人々にも様々な位相で笑いを提供できる方程式だった。けれど、この発明が彼の「充電」発言に結びついているような気がしてしまう。多様性を保持したままそれぞれに強度を与える作品*1にたどり着いた今、その次を考える段階に来ているのかもしれないなって。

*1:・・・僕はわからないけど、舞城王太郎作品について言われてることと似てるね