skypeしながら考えたことのメモ
◇遅ればせながらその存在をはじめて知った『ikzologic』。N氏、こんなにイイもの教えてくれてありがとう!!
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「ここを否定してどこかへの憧れを膨らます」っていう曲が、「どこいったってなんもない」という曲に見事に変化していて、えらく感動した。吉幾三『俺ら東京さ行ぐだ』→電気グルーヴ『N.O.』っていう比べやすい構図がよく見える作品。でも、吉幾三の原曲というのは、その皮肉っぽいライヴパフォーマンスや「銀座でべこ飼う」って歌詞に明確に示されてるように、実は最初から「東京行ったっておんなじことしかできんのよ」ってのがあって、僕らがそこにもう一度反応しているんじゃないかって気もする。
◇僕が映画やドラマなどを見るときは、主に俳優がその自意識をどうコントロールするかに注目していて、AVを見るときは、女優が元々持ちあわせている自意識をどう映すかに注目している気がする。AVの面白いところは、自意識が強い=エロいとは一概にいえないところ。
女優単体で見る場合にはその図式があてはまることは多いけれど、作品自体がエロいか否かはそれとは全く別のお話しに見える。作品のエロさって、最終的には「まるで自分の自意識が破壊されるような感覚」をどの程度受けるかにかかっていて、女優のエロさってのはその内のひとつの要素にしか過ぎないし、正直エロくない女優でもエロい作品は作れるように思える。
◇AV女優としてとても才能がある“エロい”峰なゆかが引退するそうで、本当に残念。
彼女は僕の大嫌いなぬるい文化系女子で、その肥大した自意識がセックスによって壊れる様は素晴らしかった。峰なゆかのブログを読んでみてつくづく思うのは、彼女はいわゆる、よくいるタイプの「ぬるい知識で差別化を図る文化系女子」でしかない。例えばサブカルネタの読書遍歴を披露しながらも、「真正面から感想をつづると間違った読み方をしているのがバレてしまうかもしれない」「普通のヤツorバカなヤツと思われるかもしれない」という恐怖から、全然本筋と関係ないところに着目するような自意識を持ってる(http://blog.dmm.co.jp/actress/mine_nayuka/archives/068285.html)。にも関わらず、ブログを文化系女子臭一辺倒にするかと思いきや、時折AV女優としてちょっとエロい画像を載せるなんて行動をしたりして、そんなんが卑怯な逃げに見えてきて無性に腹が立つw*1。しかし彼女は、そのおぞましく肥大した自意識がセックスによって否定される瞬間をカメラの前に現出させられるスゴイ才能を持っていた。
これは単に肥大した自意識さえ持っていれば誰でも出来るというようなものではなく、きちんとセックスに対して素直な反応をしなければできない芸当だと思う。そして、それをさらに下支えするのは、やっぱり感度の問題。どこまで壊れられるかは、どうしても感度に依拠せざるを得ないし、壊れることで、セックスはどんどん楽しめるものになっていく。これさえあれば、「セックスなんてみんなの視線を集めるための道具」なんて舐めた態度で女優になった人でも、その強度のすさまじさに思わず我を忘れる=自意識を捨て去ることが可能になる*2。峰なゆかがどういう経緯を辿ったかは知らないけれど、「セックスへの誠実さ」&「感度のよさ」が彼女のAV女優としての才能を支えていたんだと思う。
◇ところで、AVへの敷居が非常に低くなっている今、肥大した自意識を持った女優っていうのはたくさんいる。でもやっぱり彼女らが「乱れた自分も受け入れてもらえるだろう」っていうのを前提としているのは、文化系女子=童貞女子って言ってたけれど(http://d.hatena.ne.jp/andoh3/20080803)、案外処女的な世界との一体感をも持っているのかもしれないって思ったりする。